夢にパキスタン人が出てきた。

わたしは大学にいて、さっき構内に入ったばかりだった。自転車できたパキスタン人に「理学部はどこですか?」と聞かれた。

振り返って「あそこです」と背後にある建物を指した。

時計の横に英語でchemicalと書かれていた。

かれは冊子を持っていた。それには理学部の各学科に所属する者が黒いドットで示されていた。1年に3個とか2年に5個とか、マスターコースが2個ドクターコースが1個とか。最も●が多かったのが、オーバードクターの欄で、各学科ともに10数個以上あった。

「わたしも年齢的にはオーバードクターなんですが」

と頭をかいた。

どうやら夢の中のわたしは25歳にしてまだ学部生のようだった。そして文系の建物を目指して歩いていた。

「学科はなんですか?」

とパキスタン人にたずねた。

「数学科です」

とかれは答えた。

「どんなことをやっているの?」

多少、数学に興味のあるわたしは足をとめ質問した。

ああ、とかれは言って説明した。

どうやら、こんなことらしい。数学をやっている数人が集まり、ある事象についての値を出す。その時、式を立て計算して答えを出すのでなく、思ったことを擦り合わせてこのくらいの値じゃないか、とだいたいの予想値を出すのだ。

近似値分析

と言うらしい。

へえ、そんなやり方もあるのか、と思った。そして、それは正確なのだろうか、という疑問もわいた。

 

そこで目が覚めた。

 

夢から覚めて、何が起きていたのかがじわっと理解できて来た。

パキスタン人は、近似値分析をする際の話をしてくれたのだが、わたしには映像が広がっていた。数人が向き合い輪になって立ち、これくらいかな、これくらいだ、と言い合い、うんうん、それくらいだ、と同意に至るのだ。

3人寄れば文殊の知恵

と言うが、数人が集まり、ホログラムのようにその中央に集合意識を創り、そこにアクセスするというやり方のようだ。一人一人とは異なった意識状態を創り、その情報を感じる。数人の中心にできた別人格の意識を個々人が直観するのが、正確な値に近いのだとするのである。この考えは、まさに量子コンピューターではないか、と思った。

理性で出すのでなく、自分たちが〝感じている〟ことを素直に出し合い、より正確な値を知るのである。霊魂こそが正解を知っているということなのだろうか。

ピュアな数学者がより多く集まれば、より確かな値が出るのらしい。3人または4人では精度が低いかもしれないので、近似値、と呼んでいるのだ。それでも、当てずっぽうより、確度が高いそうだ。

集まる人数が多ければ精度があがるので、かれはそれを安全近似値と呼ぶ、とも言っていた。

ひとりでやるキネシオロジーテストより、もしかすると偏りが少ないかもしれない。

 

また、勝手な観念をもった者が集まって話し合えば、かえって不正確で、あらぬ方向に舵を切ることもある。エゴイズムで我を通そうとか、知ったかぶりしようとか不安や恐れ、迷いなどでああだ、こうだでウンウン唸りながら話し合っても埒が明かない。

そうではなく、自分たち数人の集合意識をアンテナにして、全体の意識にアクセスして正確な数値を知るといった方法なのであろう。一歩間違えれば、コックリさんと大差ないように思える。(あれもやり方次第だが)

多くの知識と深い洞察力をもっていながら、それをいったん脇においた無心とか素直さに達していることが精度を増すのにちがいない。

こうなるとたとえば、今日のキャベツ1個の平均価格とか明日のソニーの株価、またはあのビルの慣性モーメントだとか、中国が台湾に侵攻する日はいつか、などなんでもだいたい分かるようである。あくまで、今現在、全体の集合意識がどう捉えているでしかないが。全体の集合意識とはなにも人類とは限らないようである。物とか動物とか宇宙とか、そういった存在にもアクセス可能なようだ。

夢の話なので真偽のほどは解らない。だが、たいへん興味深い話であった。

 

理学部にchemical(化学)と表示してあったわけは解らない。しかしはっきりとそう浮き文字デカールが貼ってあった。ケミカルのスペルをわたしはうろ覚えでしかなかったが、憶えている通りに書いたら合っていた。理学部の中の化学科が真後ろの建物であっただけかもしれないし、他の意味があるのかもしれないが、今のところ解らない。

通常、日本の大学では最短で行ってドクターコースを終えるのは27歳であるが、夢の中では25歳で博士号をとるのが普通のようだった。

パキスタン人は自分はパキスタン人だと名乗ったのではなかったが、なぜだか分かっていた。かれは浅黒く、側面の髪の毛は短く少し長い前髪が立っていた。背丈は175センチほどで細い脚の先には裸足に紐のない靴を履いていた。白っぽいポロシャツに綿の長ズボンで、無骨な自転車に乗っていた。

数学と言えばインドであるが、インド人ではなくパキスタン人が出てきたというところが面白かった。おそらく、パキスタンに数学の才能があるという示唆だったかもしれない。かつてのインダス文明の地でもあるし、インドでゼロの発明された地域であるとされている。

 

この方法は、逆用すれば、数人の集合意識が全体の集合意識に影響を与えることもできるのかもしれない・・・。きっと今までも誰もが自覚せずしてそうしてきたのだろうが。