畑がに帯電していると、が吸い寄せられてくる。このに物質がくっついているので、畑に何も入れる必要がなくなる。

これが、無肥料農法の原理かと思うが、

そうなら、、畑に農ヤクをバンバンまくとに帯電し、逆に畑の物質はドンドン放出されることになる。せっかく入れた化成肥料は空中に散ってしまうのである。

に帯電させるために、畑をEMなどの有用微生物の構成にしたり、炭などを埋めておくのである。

 

それに対してある種の者は徹底的に攻撃するのである。

「EMやら、どこにでんおっ!」と息巻く元農協職員は「どこにでん、おっとで、金儲けばして!」と怒鳴り散らす。

ひとりふたりではない。

ネットをざっと眺めるだけでも、EMについて書かれたブログや動画は総叩きに遭っている。また、無農薬のレストランを経営しようとして、「畑ごと買い取るから」と交渉しても、無農薬の野菜など誰も引き受けないもだそうだ。隣人の口が怖い。農協が目を光らせているからである。

 

「畑になんも入れんのは、宗教や!」

とこれまた怒鳴る。

 

ところが残念ながら、わたしの取材では、無農薬無肥料農法を提唱している岡田某氏の亡き後にできた宗教団体では、ほとんど誰も無農薬農法を実践していない。いま無農薬無肥料農法に成功しているのは、宗教とは関係ない、覚醒した人々である。

 

自然農を掲げたサル真似をしているだけの人もいる。彼らの動機は『反抗』である。体制批判、政府批判、権力批判の表現が農協主導の慣行農法であったのである。実際、福岡正信といった自然農法の伝道師のような人も、その根に批判をもっている。体制を批判し、政府を批判することで、体制に不満な者を取り込む手法であろうと思う。かれの収入源は、農作物というより教育である。

 

たしかに宗教でやっている人もある。だが、創始者の提言していることを誤解しているのか履き違えているのか、ただ徒に、畑に何も入れなければそれでいいと信じているのが残念なところである。そして自分の作った野菜なり米が売れないのは、これまた政府が悪いと批判する。そんな精神と意識状態で一体、畑がに帯電するのだろうか、と思う。また、化学物質をヒステリックに毛嫌いするのも、かえって体内に毒を創り出しているのではないだろうか。健康な作物を食べているにもかかわらず、かれらには病気が多い。地球で生存する以上、毒も多少は要る。抗毒として機能するからである。発症に至らせない匙加減をしなければならないのだ。

 

教祖の教義を体現しているつもりか知れないが、彼らが宗教にかぶれたのは、元はと言えば創意工夫や人格向上でなく、強度な依存心に思う。創始者は畑に何も入れないことを目的としていたのでなく、より波動の高い作物を作るために人格向上と創意工夫をしてその好循環を提唱していたのであると思えた。教祖は絶対だからと、書いてある通りにそのまま実行するのが依存である。

だからかれらは不可思議なことを主張する。「溶岩石にも植物が育つ」

ごめん。溶岩石の凹みに長年かかって溜まった有機物の上に植物が育っているのである。

「育つものだけ育てたらいいのよ。砂地なら、らっきょがいいわよ」

ごめん。野菜の全てがらっきょ、なのはあまり豊かな感じがしない。

 

野菜たちは、あるいは畑の土、微生物たちは、作り手である我々の聲を聴き意識を感じ取っているのだ。不平不満と怒り、キリキリ、カリカリした気持ちで畑に居て、そこで育つ野菜がどれほどの波動を持つようになると言うのか。それほど繊細で微妙なレベルで作られているのが、自然農、無農薬無肥料栽培に思う。

 

目的はなんなのか。

 

農協が農ヤクをまかせたがり、化成肥料を入れさせたが利、除草剤を使わせたがるのは、結構なことだ。そして、それとことなる農法を提唱するのをけしからんと思い、非難し、攻撃するのも、彼らの霊格からそれば当然のことである。

そしてまた、そうしてできた野菜は、たいていの人のニーズに合っているのだ。キレイで、虫がついておらず、大きくて安い。そして真新しい。

 

このような人々の循環には、微細なレベルの食べ物は不要である。おおざっぱで粗い、とにかくおなか一杯になりさえすればそれで満足なのである。そのような人が多くいて、それを満たすためのシステムがいわゆる慣行農法であり、農協というものだ。農作物は生活費を稼ぐための手段にすぎない。彼らは財産を増やすためのカネを得るのが目的なのだ。

 

目的が健康なら、より高い波動の野菜を食べるのである。害の少ない、より自然なものを。自然の英気と作り手の愛を取り込んだ意識の高い野菜をである。

それに見合うなら、時には農薬もありかもしれない。また、化成肥料もうまく使えば文明の利器となりえる。

 

ちょっと余談だが、わたしなどは『自然な食べ物』と聞けば、化学物質の入っていない農作物や加工食品のことだと思うが、中には、昆虫を食べたり、川エビ川魚、カエル、イモリ、沢蟹など、あるいはジビエやドングリなどを食べることだと思う人もあるようだ。時々なら滋養もつくだろうが、常食するとなれば野生の波動と共鳴して、性質が野人化していくのではないだろうか。

 

プロ農薬家というのがいるらしい。だが、みていると、知っているからとどこにでもここにでもまきたがり、また、まかせたがる。あれこれ調合して遮二無二、野菜にかけたがる。

薬と銘打ってあるが、農ヤクは毒である。

いやしくもプロフェッショナルを名乗るなら、毒の使いどころを知っていなければならない。どこそこに使ってはならない。ここぞという所に適量使用するのである。

熱が42度を超えそうな時は背に腹は代えられぬ、解熱剤を使うのだ。そうでないなら、毒以外の方法で死に至らぬほどに熱を冷ます。それと同じである。見極めをするから、doctor(毒ター・毒の達人)なのだ。

毒はうまく使ってこその、薬。ちょっとばかし化学式を知っているからとなんにでもまいていると、手痛いしっぺ返しをくらうことになるだろう。

 

もう2,3年前になるが、ある時、SNSに写真付きで放線菌について投稿していた。それを覗き見した隣の田吾作がズカズカやってきて、写真に写っていた壺をみとがめると言った。

「これなん?」

ああ、これは、と説明すると、よく聴きもせず「放線菌やら、どこにでんおっ!」と怒鳴り始めた。「うちん、庭にでんおっ!」

言っていて恥ずかしくないのだろうか?

 

ここでわたしも彼にならって方言で応戦するが、

「農ヤクだらけのおまえげん庭ん放線菌と、何百年も育まれた神社の放線菌が同じなわけなかろうもん。こんボケが!」くらすっぞ、この!

まあ、そんな愚かな会話はしたくないので、実際には黙っていたが、田吾作とは本当に手の施しようのないおバカちゃんなのだ。この田吾作がながらく農協にいて猛威をふるっていたというから、佐賀県の癌発生率が日本一なのもうなづける。

 

この男の頭の悪さは天下一品で、「除草剤は土に落ちるとすぐにアミノ酸に変わる」と言う。すぐに、とは何ケ月先の話なのか。すぐにアミノ酸に変わる物がどうして3か月も雑草を枯らせ続けるのか。また、土に落ちて微生物に分解されたとしても、その土は元の、あるいは人間にとって有用な微生物群で構成されている保証はないではないか。

 

さらに、この男は、プロ農薬家で元農協職員のこの男は、密閉したビニルハウスの中で何時間も、100リッターからの除草剤を噴霧させ続けたのである。それも、「無農薬で育てるげな」と誘っておいて、除草剤をまくと言い始めたので、他の方法を提案すると「社長がやれっていうんだから、仕方ないだろう!」と怒鳴り散らした。百歩譲って、土に落ちたらすぐにアミノ酸に分解されるとしよう。では、空中に舞って、そのままわたしに入った除草剤はどうなるのか。

 

しかも1日目はその男も一緒にやったが、2日目には他の者にやらせ、わたしは2日連続となった。除草剤は匂いがしない。が、息苦しくなったわたしが喚起しようとしたら、全面がビニルで覆われ密閉状態であることに気づいた。これは、いかん、付き合いきれん、とその日はバイクで来ていたので、逃げ帰った。男が追いかけてきて「なんで帰るのか!」と大声で聞いた。

 

脳が農ヤクでヤラれている奴になんど説明しても無駄。お前は好きなだけ農ヤクを吸い、除草剤を浴びなさい。そして怒鳴り散らし、骨を曲げ、癌と闘ってお亡くなりになりなさい。

 

何十年も慣れてきた彼らと違い、わたしが急な化学物質を大量に浴びてショック死でもすれば彼らに迷惑がかかる。わたしが健康で生きる人生を選んでいることは何十回も説明していた。

 

どうして農ヤクを多用する農家に脚や腰の曲がった人が多いか、とりあえず、こう説明できる。

 

まず、頑固者で曲がったことの嫌いな性格である。いちどやり始めたことは、石にかじりついてでもやり抜く粘着質だ。すくなくとも、それを他人に強要する根性だけは誰にも負けない。農薬に恐れをなす女々しい男ではない、と威張っている。俺は猛毒に勇敢に立ち向かい金を稼いで家族を養う立派な大人だ。そんな信念をもち、それを具現化するために農ヤクが活用されているのである。

であるから、農薬用マスクなどしない。タオルを麦わら帽子の紐に掛け、半袖1枚で噴霧する。農ヤクが吸い込まれたり、肌につくと体内に取り込まれる。(彼らは皮膚についた農薬は弾き飛ばされて吸収されないと信じ込んでいる様子である)

 

農ヤクが体に入ると、体内は急速に酸化する。そのままエスカレートすると恒常性を保てなくなり死ぬので体のメカニズムが働き、体内を中和しようとする。そこで利用されるのが骨を構成しているカルシウムやマグネシウムである。骨から取ってきて中和(解毒)するので骨が細ったり曲がったりするのである。プラスマイナスで説明すると、⊕の電荷が中和を求めて⊖の電荷を持つ骨に付着して、溶かす、といった現象に見えるということだろう。

 

ともかく、しかし、恐らく、勇敢さを示した証くらいに、彼らは勲章のように自分の体の歪みを誇っているのにちがいないし、まったく異論はない。わたしとは人生の目的が異なるというだけのことだ。

 

そしてまた、この農ヤクは人の弱いところに作用しているようだ。たとえば、承認欲求の強い、認めてもらいたくてしょうがない、いつも機嫌をとってもらわねば気が済まない、屁こヘコ太鼓持ちしてもらわなければ不安になる、虚言癖の伴う、おれが、おれが、の自信のない者なら、甲状腺に病症を現わすのである。「ありゃ、おれが教えたけん、食えるごとなったっちゃんね」「だけん、あいつはおれの言うことなんでもきくっちゃんね」

 

農ヤクを多量に摂り込んだから癌になった。それはそうであろうが、--浄化システムとして癌が作動するからーーどこに病症が現れるかは、その人の性質によるようである。胃の人もあるし、肝臓の人もある。腸の人もあれば、甲状腺の人もある。ある種の想い癖が、体内で毒を作るので、たとえ農ヤクがなくても発症するかもしれないのである。農ヤクがあればもっと効果的である。うまいこと、その人の弱さを露呈してくれる。

 

解毒能力を超えた内臓が腫れ、痛みを出す。その原因は思考パターン(カルマ)にあるのに、なんと医者は内臓を切り取る。切り取ったらどうなるか。そこで解毒できなくなるではないか。そうすると、体は最後の手段である癌を作るのだ。ところが、それも放射能を浴びせかけ、抗癌剤で叩きのめし、切れる物なら切り取ってしまうのだ。目の前になくなったから、治った、と。まったく直っていないのだ。

 

わたしは無慈悲な物言いばかりしていると思う。分析は解決ではないので。だが、わたしは人間がどうして様々な思い癖を持つか知っているし説明もする。けれどもほとんどの人が聴く耳をもたないのである。聴く耳を持たない人に無理矢理押し付けるつもりはない。彼らの自由意思、自己選択の自由を侵害することは不可能だからである。

引き合いに出した人物をわたしは、まったく否定しない。非難もしていない。これだけはハッキリ言明しておく。かれは、噂にまみれているだけなのだ。世の中で正しいと信じられていることをそのまま信じているのだから、その信念を抽出したのであって、かれを批判しているのではない。解るだろうか? 他の多くの者が信じていることが彼に流れ込み貯め込まれているから、それをピックアップしたのである。かれの人格を否定しているのではない。かれが得た噂がどんなものであるかを検証したにすぎない。かれの信念は、かれの人生観からすれば100%正しいのだ。ーーただし、それをわたしに押し付けるな。

 

話がずいぶん逸れてしまったが、いまのところ、わたし自身、まだ完全な無肥料での栽培には成功していない。じっくりじわじわと土を育て、わたし自身の人格を高めるに従って畑もこたえてくれることだろう。勝手に生えてきて、勝手に増え、勝手に大きくなる。それはまるで、最良の教師の下から最良の教師が育っていくように。自分の言うことを押し付け隷従する生徒をたくさん作り出す、最悪の教師とちがって。(あえて2言論的表現を取りました。非難ではなく、好みによる選択です)

 

本当に健康で元気な人生を歩むと志すなら、既得権益の圧力に平れ伏すことはない。EM菌の推奨者に話を聞くと、隣近所の密告者を恐れ農薬をまいているふりをして、EM菌を散布するのだそうだ。代替農法を恐れる田吾作農協と悪口や嫌がらせを恐れるEM側。まったくバカバカしいかぎりである。

かといって、政府権力に頼ることもないし、農協と戦うこともない。農協と慣行農法の有用性を認めた上で、目的が違うのだと、組しない。それでいいのではないか。目的が違うのに方法で戦っても仕方がない。慣行農法の恩恵にわれわれが多分にあずかっているのは間違いない。

 

眠ったまま生きて、カネと便利さと蓄財を果たし、癌になり、それと闘って、正しい医療で死んでいきたい者の邪魔をするべきではない。すでに彼らに干渉する余地はなくなった。それは今年になってますます加速した。もう選択の異なる者たちとは相容れられなくなった。ほとんどできない。それ故に、かれらを否定するどころか、誘うつもりもない。全くないのである。わたしにできることは、彼らの在り様から学び、自分の人生をより豊かにしていくことだけである。そして同じ志の者と分かち合う。それだけだ。