全ては愛でできていて、何事も愛に帰結するのだから、愛とは全て、ということになります。すなわち、なんでもいいということになるんです。
スピリチュアル系の人には、なーんだ、政治か、歴史か、と軽くあしらわれ、政治や歴史、経済の人には、オカルトが入ると、ちょっとね、とそっぽを向かれる話をしています。けれども、政治や国際関係それから経済や歴史のことこそ、バリバリ今現在の現実、国家の集合意識で創り出している現実なのだと思います。『霊性』と『現実』は同じものなのです。それ、をどう捉えるか、同じ霊性によるものなのです。いま盛り上がっていることを自分たちの霊性を高めるための対象にしませんか。「あれ」はわたしたちの姿なのですから。
どんなに愛に似ていない行為でも、素材は愛です。諸元の意識とかエネルギーと言い換えても同じです。愛とは似ても似つかぬ振舞いであっても、それをアップコンバートしたり、高度な側面を観たり、高次元の想いに至るのに使ったりすれば、たいへん愛らしい贈り物となります。(これについては、異論や反発も多いことでしょうし、理解できます。受け入れ昇華させるのに一瞬の事もあるでしょうし、数万年かかることもあるでしょう)
もちろん、「なんでもいいから」とレベルの低いことをやれば、それに見合った結果が生じます。どんなに言い訳しようと善いことだからとゴリ押しても、気の利いた理屈をつけようとも、その程度でやったことはその程度の結果を創り出します。それが、自然の法則だからです。この宇宙の摂理となっています。
おそらくこのあたりの感覚は誰しも経験したことがあると思います。けれど、希薄だったり、教えられていることと違うという理由で遠のけたり、ないことにしていることが多いのではないでしょうか。無自覚にであても、誰しもこの道程を歩んでいるのです。
すべて。なんでも好い。というのは、無のことですね。前にも言いましたが、LOVEとは0のことも表しています。なんでも好い中で、どう在りたいかに照らして最善を選ぶのが愛であるとわたしは思います。それは同時に『霊的進化』を促すものであるかもしれません。人間が望んでいる在り方は、平和・幸福・健康・好運・自由自在・自己実現などではないでしょうか。それらを得るために遠回りをすることはないのです。そこから出発して下さい。
繰り返しになるかもしれませんが、自己正当化や責任転嫁に使えば、どんな真理も地に落ち『別の意味(周波数)になる』ることを自覚すればあだおろそかに言えることではないと踏まえた上で、どんなに醜いことでも愛として捉えることはできますし、そうした時、愛になります。相手の低い周波数にかかわらず自分の中では最高のものにすることになります。なにごとも進化の糧、鏡、石とすることはできるのです。誰しもやっていることですが、次元の低い所にいるほど時間がかかります。
さて、無すなわち愛、あるいは全体的認識に至る方法はいくつかあることでしょう。憎しみもそのひとつです。
「ちょっとセンソ―を憎んでみましたー。あんまり日教組がうるさいんでー」というレベルでなく、心底憎んで、かえって冷静になって考え抜く。徹底的に調べつくし猛烈に自問自答するんです。怒り心頭に発したり、骨肉に至ってはなりません。それは自滅の手段に他なりません。その段階はできる限り短く終わらせることがコツです。そうやって、相手の本質を見抜き、核心を突くんです。もちろん、相手の弱点も正確に見えてくることでしょう。そうなれば、相手は籠の中の鳥です。こちらは被害を受けず、相手は似て食おうが焼いて食おうがこちらの意のままになります。いつでも潰せるという余裕が出てきますね。慈悲心すらわいてくることでしょう。
極限の憎しみは愛に転じるものなのです。これこそが本物、実質の想いであり、理性で造り出した“理想”など振りかざしている内は、甘いのです。学術的にこうだよ、証明されるよ、あるいは法的にこうだよ、の程度でなく、己の在り方として、言葉と行動が一致した状態。生き方そのものとして『真実』を示す。日本人は、こうなんだ、こうだったんだ、と。そこには悔いもなく、責任という言葉が「反省して進化(改める)する」という意味になることでしょう。反省が“罪悪感”で、改善が“謝罪”し“賠償”し続ける、という盲目な奴隷の牢獄に閉じ込めてきたのは、誰でしょう?
憎しみは、愛の波動の低い状態であることが分かります。一部しか知らないから抱ける感情なのです。あるいは憎むためのレッテルを貼り付けるからできることなのです。他のあらゆる残虐な振舞も、狭い範囲での限定された利益を求めるからこそできる、低い状態の愛なわけです。押し付ける善も、おおきなお世話も、結局は低い状態の愛すなわちエゴイズムの投影行為なのが分かります。国粋主義、民族主義、家族擁護、子煩悩、自己愛。ちいさく暗く限定されたそれらと、自己愛から広がっている愛国心や博愛はエネルギーの状態が異なります。我欲と『大我を知っている自我』では異なるようにです。自己愛か博愛かではありません。博愛は自己愛なのです。
あくまでこちらに100%利のあること即ち互いにとって結局は望ましいことを実現するには、あくまで自分たちの高次の想いにこだわることです。ここが、『執着』するべきポイントであり、たいていの人が外しているところです。たていの人は初めにやり始めた事や方法に拘泥し、それがうまくいかず失敗しているのに「イチドハジメタコトハサイゴマデヤリトゲントイカン」と念仏のように唱えて粘着します。こだわるのは、意図する結果の出る最善の方法を見出し実行することです。すなわち、霊的進化です。
支那事変が泥沼にはまっていったのも、日米戦争を早期に終わらせられなかったのも、この日本人特有の思考癖の故かもしれないのです。“初志貫徹”が、高次に至ることでなく、初期設定にとどまるのは崇高な態度どころか、“我が強い”だけなのです。(鳩山さんなど、いまだこの次元にいらっしゃるのかもしれませんね。)深刻に思い詰め、我慢して我慢して、我慢して爆発。爆発したら変更不可能、ではアメリカ的合理主義には、少なくとも表面上は勝りません。※
第一、アメリカや中韓の利と日本の利は重なっているところもありますが、ズレています。物や土地や金だけを市場を形成して儲けようとしたり、詐術を弄して横取りしたりするセンスは本来、日本人に合ったものではないように思えます。
日韓や日中関係。互いが独立独歩して、創造的に進化していく中で、各々の才能を出し合い協力する関係であることを望むなら、そうで在るのに最もふさわしい考えや言動を選択するべきであって、極論すれば相手がどうで在るかはどうでもいいとも言えます。こちらがどう在り、どう成りたいか、それだけなんですね。個人も国家も、自分や自分たちの想いにどれだけ忠実に従うか、問題はそこなんです。ところがたいていは『どうなり成りたいか』が明確ではありません。
行き当たりばったりでその場その場に対処して、エゴを満足させることにはのぼせあがり、エゴを侵害してきそうなことならまだしも欲しい物をくれない相手に対してはわめき散らして攻撃し、全てを台無しにしてしまっているのに気づいていないことが多いのではないでしょうか。
エゴ(個我)か大我かという考え方をするのは、エゴ=マインド(理性)のなせるわざです。大我のためにエゴを台無しにするのも、エゴのために全体を犠牲にするのもなりません。
エゴは大事なものですから、自分のエゴと同時に他者のエゴも大事にすることです。相手のエゴを侵害することは、己にあらゆる次元で損失を創造することです。なぜなら、なんぴとも大我の外にはいないからです。
相手がどうで在るかはどうでもいいのですが、こちらが何を成したかは、しかし他者の存在が不可欠なのです。自分の想いに忠実であらねばなりませんが、相手の魂に何を与えたかはよく観なければなりません。ある時までは『感謝』であったことがある時からは、優越感に変わったかもしれません。自立できるようになった子供にいつまでも母親が節介をするのは、うざい、だけなのです。母親の方が成長し遅れています。
本当に望む、そうした目的に賛同しないなら無理して仲良くすることもありませんし、離れていた方が互いのためという場合も少なくありません。低レベルに『無理』に付き合うことは互いの進化向上にかないません。
霊的な程度うんぬんといった言い方がこれまで避けられてきたのは、たいていは誤解され、自分を優位に立たせてしか見なかったからです。優越感で相手を嘲り軽くあしらったり突き飛ばしたりするのは、己のレベルが低いのだと自覚した上で、相対的レベルを測りましょう。年齢・性別・技能・収入・地位・役職・学歴・歴史・人数・経済規模・・・どんな場合も敬い合うことがあっても、それが霊的優劣を決定するものではありません。なしえた結果と努力には敬服しても、~だから、こちらが上、だと見ているようではレベルが低い。相手に付け込まれる、安い、スキを与えています。自信のなさは、スキを創ります。愚痴が時間を創り、億劫さが空間を創るようにです。
※ 当時の日本人の戦争観にはアメリカ的征服の発想がありませんでした。あの戦争で早期講和を目指すなら、真珠湾攻略のあと居座り、ミッドウェー島に基地を作ってアメリカ本土に大軍で押し寄せ、立て直しのできない前に武器弾薬の量産体制や戦艦や空母の建造を阻止するべく破壊してしまえばよかったのです。それでも、そこで終わらせてくれたかどうかわかりません。機を見て報復したことでしょう。「やられたら倍にしてやり返す」というのがアメリカの価値観であるからです。相手が「参った」と言うまでしつこくやり続けるのが彼らの性質なのです。白人種の国家には“復讐権”というものがあるそうです。
