霊とは、同時です。同時という概念すら不要の因果一体の世界です。あらゆるものを創り出せるエネルギー(意識)そのものです。そこに私たちが、何か在る、と意思を差し向けると創造されるのです。外側に見えることは内側で創り出されたことだ、と言われるゆえんです。迫害しようという意思はマイナスのエネルギーを創り出します。そこが霊界です。

相手を亡き者にしてやろう、晒し者にして恥をかかせてやろう、罪を着せて恐怖におののかせてやろう。そうした思念が言葉となり行動となり、相手や社会など、他者や外側に向けて表現されます。失敗するように期待する。不幸のどん底に落ちるように切望する。それらは呪いといって、霊界に巨大なマイナスエネルギーを創り出し、蓄えていきます。

霊界にマイナスのエネルギーを創り出すと、どうなるか。マイナスの現実を体験する結果となるのです。肉体や出来事が創造され、それを体験することになります。この原理原則を熟知すればするほど、霊界にマイナスを創り出すことはなくなっていきます。バカバカしいからです。望む結果とはまるで異質の結果を手にすることになるのを知っていてやるのは、愚か者を通り越してなんでしょう。よく「解っているんだけれど、やってしまうんだよね」と反省とも自堕落さともつかないことをぼやく人がありますが、解っていません。解っている人はやりません。

したがって、どのようなエネルギーを使って思考すれば、どんな状態になるか解ります。病気は、マイナスのエネルギー即ち自己否定から生まれる不安や恐れをベースにした思考や観念であり、継続すれば体のどこかに病症として表現されます。たとえば、こういう怒り方をすれば肝臓に、こういう怒り方をすれば大動脈に、といったふうです。それで「怒ってはいけない」と咎める人がでてきますが、怒りをなくすことはよほどのことがないかぎり、できません。怒りのエネルギー自体は、いつでもぷくぷく湧き上がっているからです。ですから、裁こうとしている自分を見つめたり、愛らしい表現にしたり、他者や社会を理解したり、すこし遠くに置いて我がものとしなかったりして、身を焼き焦がす怒りを自分自身として選ばないように怒り方を工夫するのです。怒りの本質は拒否ですので、何を拒否しているか、そこのところをよくよく見つめれば自分の成そうとしていることが分かってきます。・・・思い癖と病症については他の機会に譲ります。

 

イエスは、迫害者が霊界にマイナスを創っているからといって同調し、自分もマイナスを創り出すのでなく、自分は霊界にプラスを創れと勧めているのではないでしょうか。迫害者と同じ現実を体験するのは愚かしい。彼らが地獄でのたうち回っている間に私たちは天国を体験しよう。そう呼び掛けているように思います。

彼らが目覚めるために、彼らの望み(創り出したマイナス)を存分に味合わせてやってください、とは愛に満ちた想いに思います。迫害が自分たちの望むことを創り出すのに役立たないと思い知ったとき、変化の機会は訪れるからです。迫害者に迫害させ続けることは決して思いやりでも愛でもありません。暗い想念がますますエスカレートしていって歯止めがきかなくなって不快さにまみれ溺れるのは、迫害者も同じことです。

(愛は憎しみに似ているし、憎しみは愛に似ています。

憎しみは、浅はかな決めつけを超えて相手の本質や核心を観察させます。ただ、その後に癒したり進化を促したりするか、弱さを突いて失望させたり滅ぼそうとしたりするかの岐かれ道はありますが)

 

 ところが火星人。ところが鳩山さん。ところが村上春樹。