たとえば人間のような、その星の霊的優位者のことをわたしは『自覚ある知的生命体』と言い換えている。「私は何者か」を自らに問いかけ、それをどのようなものと見なしているか、その程度には差があるが、ともかく自分という意識をもっている生物体のことである。
武道や日本のスポーツもあいさつから始まる。
これは日本人が古来、自覚ある知的生命体の伝統を持っているからである。
日常、外で人に会ったら挨拶が奨励されるのは文化的あるいは文明を有する国や地域なら当たり前のことだろう。
わたしが今住んでいる村に引っ越して最も驚いたのが、村人があいさつしないことだった。こちらからあいさつしてさえ、黙っている。もしかするとオシの集落なのか、それとも外国人の住む隔離地だったのかとさえ疑った。
なんのことはない。日本語ペラペラで、とにかく観たこと聞いたことは他人に言わないではおられない。それが瞬く間に二十五戸百人の世間に知れ渡る。恐るべき集団思考、ずんだれの垂れ流し。伝達速度[30人/日]と観たが実際にはもっと速いかもしれない。ギガバイトのテレパシー通信でもしているのではないかしら? 蛆虫のごとくに。
そのことをSNSに書いているとそれを盗み読みした村人のひとりが「みんなあいさつしないが、どうしたらいいだろう?」と問いかけとも嘆きともつかないことをわたしに言ったことがあった。
「あなたがやればいいじゃないですか」
とわたしは即答した。すると彼は窮したような顔をしてごじゃごじゃ言い始めた。
もちろん、彼を含む数人の村人は盗み読みとは思っていまい。だがわたしは、顔を見知っている者の書いているSNSを偶然か、もしくはしつこく検索でもして見つけて読んだなら「読んだ」と言わないかぎり、盗み読みと見なしている。たとえ全員に公開していてもだ。それを黙っていて、あんなこと書いてるの知ってるぞーと言わんげな素振りでニヤニヤしながらチラチラほのめかしてくる態度が極めて気色悪い。
早くから彼らが盗み読みをしていることは察知済みだったのだけれど、確証がなかったので黙っていた。それで、村人のことを題材にして別のことを伝えるべく書いたらやはりそれを踏まえたようなことを言ってくるので、やっぱり読んでいるな、と思った。だが証拠はない。へたをすると、書いていないことさえ知っているので、家の中に盗聴器を仕掛けているのではないかとさえ思ったほどだ。
特に隣に住む男は、年金をもらい始めたくらいの老人で、日中どこに潜んでいるのか分からないのだが、わたしたちが畑でしていることや話したことを全部知っていて、それを元に知ったかぶりをしてきたり、出どころがだいたい察しのつく噂を大家に告げ口したり、わたしの年収がいくらかだのどの社会保険に入っているかまで知ってそれを盾に優位に立つような態度を取るという有様だった。そうして、あんなことしたっちゃいかん、こげんせんといかん、と陰でぶりぶり下痢を、失礼、義憤にかられ自分ほどの物知りと世間通、経験豊富な者はいないと怒りをぶちまけている様子である。
村一番の物知りで利口者の自分は、わたしの書いたSNSを熟読したからには、わたしの全てを知っているつもりになっているようだった。書いてあることの意図も分からず、また書いていることがそのまま事実と信じ込んだり、書いてあることだけしかやっていないと思い込んだり、この頃ではブログやYouTubeなどを発している人が多いので、こうした未熟者たちの性癖に同じような経験をされた方も多いことだろう。わたしは相手の知性にあまり高度なものを感じない。
さらには、社会化された自分の価値観で書いてあることややっていることを勝手に裁き、ゴシップをほじくりかえし、それを元にわたしを小馬鹿にしてやろうという魂胆が見え見えだったが、素知らぬフリをしていると、ホレ、気づかないのか、ホレホレ、とますますエスカレートしていくのだった。それは、変態性欲者ですと言って回っているようなものだけれど、閉鎖された田舎では放置されてきたようだ。インポ男のせめてもの慰めを取り上げようとしない優しい、甘いひとたちの集団なのだろう。わたしが彼らを覗き見なくとも、手に取るように彼らの心と行動が観えていることを知ったら、きっと恥ずかしくなるだろう。
ともかく、池田亀太郎よろしく覗き見と盗み聞き、そしてそれをペラペラ吹いて回るのが趣味のドスグロい醜男である。家人は、特に老齢の母親はわが煩悩のまな息子がそんな変質者まがいのことをやって回っているとはつゆ知らない模様である。家では良き父親、良き夫、良き跡取り息子を完璧なまでに演じている様子である。その反動が他所で人格異常者にしてしまうのか、それとも未成熟な人格が内部の人格を統合できない多重人格的失調症を発せさせているのか、わたしにはどうでもいいことである。
この隣人の醜男は牛のような四角い顔をして、ずでんとしたタヌキのような風体をしている。農薬にヤラれた両脚をゴム製の義足のように引きずり歩く姿は、雪山で目撃されたイエティの後ろ姿そっくりそのままだった。全身をまとうまっ黒い、波打つ毛並みは、焼しめた炭のように白光りする毛先をもっていて、よく見るとお凸が出っ張り、潰れたような鼻と、だらしなくしょっちゅうほじっている穴とくだんの性癖と合わせて、ゴリオと呼ぶにふさわしい。
ゴリオは、いつのまにか人の背後に鼻息を立てながらぬっと立ち、あんひとはこげんやんね、とぽつりとゴシップを囁くのが性癖だった。おそらくそうする度に射精しているのだろう。マラチャックのあたりが数か所ミルクを落とした時の十角形の染みでデザインされていた。
ゴリオの変態行為を村人皆が看過しているのは、村人が皆同じことをやり合っているからである。当たり前のことを奇異に思うはずがない。しかも、善意で、しかも親切でやっていると完全に信じ込んでいるのである。いざと言う時に役に立てばそれも結構。だが、いざと言う時は、遠めにながめながら、ほうら、オレが言ったとおりやろ、としたり顔で評論し誰が犯人かを議論し始めるだけで、なにもしない。知らなかったフリをする。「自業自得」とは真理を表す言葉であるが、かれらは安い者たちの用法を踏襲し非難に使う。
ゴリオもこの村のご多分に漏れず、あいさつしない男だった。話があるのであいさつすると、振り向いたなり黙っていたり、あーーっ? と迷惑そうな声をあげるばかりだった。それが数回あった時、周囲の自然環境に同化した野性的な人間もどきが棲息している僻地に来てしまったかと一瞬後悔しそうになった。これはもしかすると、すがたかたちこそ自覚ある知的生命体と同じだが、中身は獣と同じで本能行動をとっているかもしれないと胸が高鳴った。珍種の動物を見つけた動物学者の心境である。
なん百年もこの地に住み着いている土人だから、周囲の人間関係がこじれにこじれ、絡まり縺れ、収集がつかなくなって、あいさつをしなくなった、とか?
いつもへらへら笑いながら近づいてきて軽口を叩くのは、ゴリオの親戚と言うか従兄で、世襲議員をしているテングザルそのままの顔をしている男だ。こいつを本名をもじってメンヘラさんと呼ぶことにしよう。人があいさつしないことを嘆いてきたのが、覗き魔ゴリオの囁きと憤怒をたっぷりと聞かされた、メンヘラさんであった。
「あなたがやれば、世界に一回、あいさつが増えますよ」
すると、メンヘラさんはこの答えがたいそう不服だったらしく、
「そんな、うまくいくかなあ! 世界中のみんながやりはじめるかな?」
と怒鳴るような口調で返してきた。極端なのだ。
安い者がいつもやるように、自分で考えたこともないことや理想的なことを聞くと、一度怒鳴って完全否定して著作権をキャンセルし、ちゃっかり自分のものにしてしまうというやり方か? それも次に別なことを他人から聞くまでの間で、ちがうことを聞くとすっかり入れ替えてそれをまるでオリジナルみたいに言う、あれか?
しかしまさか、議員様ともあろうお方がそんな安いことはされますまい。
まず隗より始めよ、という言葉を知らぬはずはないが、とわたしは思いながら応じていた。
「自分からやれば八割くらいの人は返してくれますよ。そうすると、世界に二回、あいさつが増えるじゃないですか」
そう説明すると、わかってないやつ、という顔をしてメンヘラさんは体を引いた。自分から始める。自分から始める人が世界中にいれば、世界中の人があいさつすすのでないか? そう聞いても収まらないメンヘラさんは、あとで、ゴリオの悪口喫茶かどこかでさんざっぱら悪口を言い募っていたことだろう。
なにせ、メンヘラさんが話しかけてきた意図は、互いに世の中を嘆いて仲良くなろうね、というものだったから。
いつもイライラしている人
いつも心配ばかりしている人
いつもカリカリしてる人
いつもムカムカしている人にはあいさつがない。
うるさい黙れ、と無言でいるか、ああ? とさも不快な声をあげる。
人に何か言う時、「こんにちは、いい天気ですね。おい、おまえ、殺すぞ」とはならない。不穏なことをやろうという段にはあいさつはない。
武道や日本のスポーツであいさつから入るのは、スポーツマンシップに則って正々堂々と戦うためである。お互いの技能を磨き合い、向上させていくためであって、殺し合い潰しあいをするのでないからだ。山本五十六が真珠湾攻撃のときに宣戦布告にこだわったのもそのためだろう。イギリスからの独立とインディアンを皆殺しにしたアメリカ人相手にそれはむなしい自己満足であったが。
あいさつから入れば、落ち着いた話ができる。
落ち着いて話せば、グッド・アイデアも出てくるだろう。
相手を糾弾してやろう、悪罵してやろう、抹殺してやろうとするのは、暗い情念である。
あいさつから入るから、静かな話ができるのだ。自分の言い分だけを押し付けてやろうとか、説教してやろうなどとはならない。次元の高いことが口から出てくるのである。高度な真実が口をついて放たれるのだ。
そういえば、この村の寺の住職もこちらがあいさつしても、むっつりしていて、こちらが前向きなことを言っているのに、それはいいとして、と訳の分からぬ暗い説教をしてくるね。お経を唱えるのは得意だが、思慮分別はなにもついていない葬式坊さんだ。
剣道でも、夜道で後ろからナイフで突いてやろうとはならない。しょうめんからルールの中で心技体をきそうのだ。
人間関係でも同じことだ。みな、人の道を歩んでいる。
あいさつのできない人からは、ねたみ・そねみ・ひそみ・愚痴・心配・非難・復讐・攻撃・やっかみ・ひがみ・自慢しか出てこない。すべてがそれらで構成されている。愛ってなにか解らないと怒る。(愛が何か分からない、なら高度な認識であるが)無の境地など考えたこともない。
ここでは余談なのだけれど、実は愛と無は同じものである。Loveをテニスやバトミントンで使う。0の時をラブと言う。「相手が許すまで謝り続ける」などおためごかしの愛もどきにすぎない。『まごころ』や誠意もそれをむさぼり食ってお代わりを無心してくる者には通用しない。無とは全てを観て、互いの進化にとって最善を選択することである。最高の目的を完全に機能させる手段を選ぶことが無なのだ。なにもしないとか、ほったらかすことではない。
ましてや、のぞきみ、ぬすみぎぎして馬鹿にしたり嘲ったり威張ったり。あいさつしないような暗い輩にふさわしい行為なのである。こんな程度に落ちた者を知的生命体と呼ぶのははばかられる。覗き見している分際で、あげなこと書いとったバイ、と告げ口して怒る、糾弾する。人の生活を覗き見しておいて言い触れ回り、なんでも知っとっとバイ、と優位に立とうとする。お前らのやっていることは、卑しいゲスの行為だ。いくら腐汁をなめても気が済まない餓鬼の性分だ。出っ歯の亀太郎。便所覗き。ゴリオ。
人間には『獣』と『自覚ある知的生命体』のおおきく分ければ二種類あるのではないか。どちら側により引っ張られているか。
この村の、あいさつせずに暗い情念ばかりを煮えたぎらせている連中のことを田舎モンもしくは類猿人と呼んでいる。こういうことを言うと、そのまま言い返すメンヘラさんたちは、子供すぎて。
「お前がそうだろう」かどうか、よく見極める識別力がかれらには乏しい。ひとりひとり千差万別の在り方を如実に分別してこその、自覚ある知的生命体というのではないか。文明から取り残されたデッドスポットで独自の進化を遂げた類猿人たちに、あいさつの効用ひとつ教えるのも一苦労なのである。彼らがひたすら歩んでいるのは、畜生道なのだろう。
それを観て、知的生命体は自覚を深めるのである。自分とは何者か。『本当の自分』として選んだ在り方の結果を責任をもって観察し、さらに進化した自意識をもっていくのである。あいさつしない生き物の心のうちを推察し、あいさつできるような状態で日常生きていくのである。あいさつしないケダモノの在り方を類推し、あいさつできるような状態で日々の生活を営んでいくのである。あいさつしない餓鬼畜生道を行く物の様相を直視し、人間・超人・神人の生き方をしていくのである。かられはその貴重な鏡である。そのままで精進していってもらいたい。
