自国を悪く言うような歴史観を持っている人が健康であることは少ない。

 

日本を悪く言わねば他国を良く言ったことにならないなどと考えるのは、よほど幼稚な思考である。日本だけを依怙贔屓する傲慢な態度である。と言うより、狂っている。

 

自国を悪く言うような歴史観を持っている人が幸福であることは少ない。

 

みんな平和で仲良くなどと自己主張するが、すぐにつっかかり、食ってかかり、なにかにつけて攻撃的である

 

自国を悪く言うような歴史観を持っている人が好運であることは少ない。

 

なぜか? まず産土神に好かれない。ココも、自国の一部である。自分を毛嫌いし、憎み恨んでいる者がのし歩く所はすべて不毛の地、ケガレチとなる。

 

太陽神にも好かれないし、日本を守っている神々や英霊、先祖霊に嫌われる。というより、自分から拒絶しているのである。かれらを守らない、ぞんざいに扱う者にかれらの想いが受け入れられようもない。

 

自国を愛する、あるいは自国を守るとは、自分を愛し守ることなのだ。それを戦争になるからとかいう訳の分からない理屈でないがしろにするのは、自己破壊に等しい。なぜ、そのことが解らないのか。いつも、自国を悪しざまにいう者を目の当たりにする時に思う。

 

自分を愛するから自国を愛し、地球全体を愛し、宇宙を愛するのだろう。

 

だから制御不能な原子力発電は慎重になるのだし、田畑に毒を混ぜないのだ。分かるだろうか?

 

それを体制への反抗とか、優越感を示すための自己主張としてやる。まったく愚かなことだ。

 

わたしは、相手が自分自身を愛するよう促すために、もっと公平で気高い歴史について語る。だが、偉い俺様に異見する気か、楯突く気かと、つばきを飛ばして反論する者が後を絶たない。自国の歴史をさげすみ、捻じ曲げ、負の側面ばかりを針小棒大に言い、無理矢理に悪にこじつけ、非難ごうごうに罵っている様は、どれだけ欲求不満なのか、と溜め息をもらさせる勢いだ。

そのまま相手が向上しなければ、だいたい2年半くらいすると、誰の眼にも明らかなほどの不幸で不運で重篤な病症を発したりする。

 

天罰か?

 

いや。

 

偶然か?

 

ノー。

 

気づくための機会が訪れたのである

 

それでも気がつかなければ、もっと分かり易いことが起きて来る。誰が起こしているのか? 

 

自分自身である。

 

自分自身のハイヤーセルフが。

 

神々と結託して。

 

(神々とは、精霊や自然霊、あるいは英霊、先祖霊、日本の守護神など、肉眼にはとらえられない存在たちのこととして言っている)

 

盲目で歪んだ精神をもった者ほど、よく知りもしないのに、自国を悪く言う。たいていは、幼さの表現、妬み、甘えの裏返しである。

 

なんとかして欲しい、どうにかして欲しい、助けて欲しい。

 

神を守らぬ者が神に守られる道理はない。

 

国を守らぬ者が国に守られる道理はない。

 

そう思わないか。

 

自分を守らぬ者が自分に守られる道理はない。

 

不幸は得てして自分で創り出している。

 

 

最初に不幸だから不幸を振りまき、不幸を実現する。

 

運や健康についても同じことだ。

 

にもかかわらす、必ず他人や自国のせいにする。

 

暇人のお遊戯に思えるが、己の有様が全く観えず、それでいながら他人のすることには「わっざわざ、余計なことをして!」と嘆き、いかるのである。

 

がんばっても頑張っても、こじつけて正当化でもしないかぎり、うまくいかないようにできている。なのに、社会の不公平を嘆き、不利な親のもとに生まれた自分の不運と親を恨んでいる。

 

たいていは不勉強で、センスの悪い、固陋で浅はかな、個人的で限定的な噂話を仕入れただけの耳学問で止まっているから、アタマの中が混乱し、支離滅裂で葛藤ばかりやらかし、悩み、迷い、うっぷんをかかえ、そんな自分に失望している。

 

まず第一に、自分自身の存在を罪悪なものと見なしている。そんな輩が自国を悪く言う歴史観を持っているのである。

 

自国の歴史を悪く言う者は、その国に今生きている者、かつて生きていた者すべてを否定しているのに等しいではないか。

 

それでうまくいくと夢想する方がどうかしている。

 

良く言う必要もない。ただ、事実をよく知り、公平にながめ、そのことを実現した者たちの想いがどんなものであったのか、志はあったのか。よくよく見極めることだ。

それが最も学び、これからどうしていけばよいかを知る手掛かりになるのではないか?

 

歴史に限らず、何かを非難している者はたいてい、そのことについてよく知らない。自分に利益が誘導されないから妬んでいるか、他人がそう言っているから一緒になって言って嫌われないようにしているか、個人的な体験からナマスを吹いているか、都合の悪いことを隠すために言っているか、たいした理由はない。

 

自分から自分を救うのは自分だ。

 

底なし沼に嵌まり、その渦に巻き込まれている者がもがいて逃れようとしてつかむのがいわゆる自己愛というやつである。己を装飾し、騙し、誇張し、背伸びして、威張る。その反面他人はけなし踏みつけ汚す。ケチをつけ貶め嘲り笑い馬鹿にする。みじめそのものである。あるいは、ゲス。クソ。ゴミ。

 

そうした自分を素直に認め、認めるなら卑下もせず、嘆きも失望もせず、洞察に満ちた本を読みながら、そこに書いてあることで他人を批判するのでなく、一歩一歩、自分の眼で核心や本質が観えるようになっていくしかない。

積み重なると、ある時、飛躍的に向上することもあるだろう。魂は雪だるま式に大きくなるようだ。分かれば分かるだけ、どんどん分かるようになっていく。(もう分かった、これで十分だ、とふんぞり返らないかぎりは)

 

「真実はひとつ」などとしたり顔で言う者があるが、正義・真実・善良というものはたいていが「その人の」という限定枠付きだ。

 

いつでもどこにでも提示されている『コトワリ』が観えてくるまで己を研ぎ澄まし、神々のささやきに耳を澄まし、それらと共にあると認めるまでは、物事が自動的に、意図した事が引き寄せられることはない。

 

顕在意識が高次元になればなるほど、あるいはハイヤーセルフと一致していけばいくほど、自分で現実を創り、物事を引き寄せていることが分かってくるだろう。

 

――より明るく、人生を楽しんでいくために