これから書くことは小説の一部として置いていたのであるが、いま公表した方が好いということなので、抜き取って著すことにした。登場人物のひとり郁夫が友人に話している場面である。
しかしこの程度のことは誰でも知っているし、言われたら思い出すレベルのことである。
その1
カガシは七十を越えた男である。ひょろっとした体躯、細長い顔につぶらなヒトミが広い眉間の両端についていて、うわくちびるに垂れるようにのしかかった長い鼻をした顔はテングザルか典型的なユダヤ人である。タイラ家の郎党には古代ユダヤ人の血が流れていたと思わせた。(自分の一族は平家の末裔だと、デボオが言ったことを踏まえている)
こいつの徒名が俺の中で〝カガシ〟になったわけは前に話した通りだ。(経緯は省略)そいつがどうしたわけか、デボオと一緒に畑にいたところにやってきた。車を降りたカガシが向うから歩いて来るのを認めた俺は「こんにちは」と挨拶した。だが、黙っている。耳が遠いのかと思って、もう一度大きな声で言ったが、無視だ。よほど近づいて来たのでもう一度言うが、犬みたいに黙ってクンクン近づいて来いるだけだった。今思えば、俺に何を言ってやろうかと日頃使わない頭を使って考えていたのかもしれない。
そうして挨拶がわりに言ったのが、
「農業ば、やり始めると面白しろかけん、やめられんごとなっぞ」
だった。それはそうかもしれないが、デボオみたいに農薬中毒にはならないから、辞めようと思えばいつでも辞められる。と思えた。カガシは自分のことを言っているのだ。定年退職後に先祖から引き憑いた田畑専業になってみると、ハマってしまった。それを他人にも当てはめようとしただけだ。
「カガシしゃんは、店ばもっとるけんねえ」
とデボオが媚びたように言った。いつものように舌を打ちながら。
店と言うからには、道の駅とまではいかないが、少なくともプレハブ以上の大きさがあるのだろう。と想像した俺は言った。
「店ですか。それはすごいですね。どこにあるんですか?」
すこし間があいて、カガシが答えた。
「家の横たい」
こいつの家は、飛び地にあり、あのあたりということは分かっていたが、定かではなかった。あのあたりに〝店〟があったかな、と思いながら、
「家がどこにあるか知らないんですよ」
と俺は返した。越してきて1年かそこらだったか。この土地に何百年も棲みついている者たちにとっては知られていて当然のことであったろう。それを聞いたカガシはここぞとばかりに、
「お前が広報ば配らんけん、知らんとた!」
インネン垂れた。
つい先日、初めて当番が回ってきて、夫婦で地図を見ながら、町と県の広報を配って回った。どこが誰の家か知るためでもあった。近所はふたりで歩いて回り、中距離の家は俺が歩いて、遠距離の家は免許を保持している妻が車で持っていった。カガシの兄弟は隣組から、離れた飛び地に住んでいた。
ほとんど初めて面と向かい、交わした言葉に、おまえ。しかも、いきなり批判。
こういうド田舎村の田子作が家族や職場にひとりでも居ると、周囲が嫌な気分になるものだ。老害老人とはこいつのことだ。
カガシが自信をもって上から決めつける背景には、老害老人にありがちな『なんでも男がやらなければならないのに、女にやらせて』と、これ自体もすでに非難なのだが、それと『仕事は足で稼がんといかん』の信念があっての発言であることが見え透いている。
「俺が配れない所に住んでいる、てめえの問題じゃないのか?」
と言い返してもいいのであるが、俺を責めているというより、こいつが自虐しながら守っている信念とそれに基づく行動を表明しただけであるから、ハアこの程度の奴かと知る機会であったと思うにとどめた。
老害老人にありがちな思考法は次の通りだ。
おまえがバカだからできない
この論法にすべてを当てはめて思考し口に出すのは馬鹿のひとつ憶えである。操るのは、馬鹿である。馬鹿が全員を馬鹿にする。馬鹿にかかれば、賢者も知恵者も馬鹿になる。
ひとを馬鹿にしていることを自分でやらかしてしまい、馬鹿にされる。それでますます他人を馬鹿にする。馬鹿にされる前に馬鹿にする。馬鹿同士が互いに馬鹿にし合い、泥沼の、骨肉の争いを繰り広げているのに、平然と組み寄りに集う。その神経は、程度の低い調和を創り出す日本的な方法のだろう。デボオの覗き見、盗み聞き、盗聴、役場の個人情報無断獲得、詮索、言い触らしなども、「デボオはいやらしかねえ」で済まされてきた、村人にとっては馴れ合いの風習なのかもしれない。自分のことを知って欲しいという欲求の裏返しなのにちがいない。
いかにも因果関係がありそうに思わせたい田子作の論法は、因果律を表しているのではない。因果とは意識の周波数(次元)と現実や経験の整合のことを言う。
おまえが、広報を配らないから、知らないのだ。
まったく因果とは関係ない。ただ、難癖をつけているだけのことだ。その裏には、女を食わせるのは男の甲斐性。足で歩いてこそ仕事。といった信念がある。どちらもやらない奴は、バカな怠け者だ、と嘲り非難しているのである。
あとでデボオが、自慢のビニルハウス喫茶に俺たちを招いて珈琲を飲ませついでにスマホの地図を見せ、カガシちゃんの家はここ、と指し示したが、拡大し過ぎでよく分からなかったし、別に知りたくもなかった。それでなくても、こいつらの、特に下半身事情と台所事情に対する執念深い盗み聞きと覗き見と詮索と吹聴には辟易していたので、自分はこいつらのことをなるべく知りたくもなかったし、知る必要も覚えなかった。
こいつらの好奇心と詮索だましいには、唖然とする場面がいくつもあった。デボオに何か言うことは、村人百人に向かって言うのと同じことだった。次の日には周知徹底されている。どんな細かいことでも、まるで布に血が染みるように沁み渡った。かれらの口と耳にはインターネットがつながっていた。今日あったばかりの者が俺について〝すでに知っている〟のを知って、閉口したことが何度あったことか、
しかし店。
ほお。と思っていた。野菜販売店を経営し、いっぱしの店舗を備えているとは、どれだけの手腕の持ち主か。あなどれない老害老人かもしれない。と思っていた。
それから何ヶ月か経って俺は自動二輪の免許を取った。そしてカガシの家の横を通った。あったのは、無人販売用の小屋であった。それも畳半分ほどの木箱に斜めの屋根をつけてあるだけの、木板打ちっぱなしの、雨ざらしでふるびて黒ずんだ。
あれを〝店〟というのかな、と思った。〝見せ〟ではあるかもしれないが、およそ店という言葉から想像するのは、現在にあってはコンビニエンス・ストア以上のものだろう。世代がちがうと店の概念も変化するのだろう。
ともかく、才覚も手腕もない。余った野菜を置いて、売れたら無課税の小遣いが得られる。それだけのことだ。なんだ、こいつら。結局、先祖から引き渡されて来た田畑や山などの財産というアドバンテージと新設道路がかかって土地を売って得た不労所得で生活している有閑階級者様ではないか。俺はカガシの家を通り過ぎて次の信号で停車するまでの間にそう思った。
ソコを聞き出すまでデボオと親しくなる前に縁を切ったのであるが、おそらく、この村の誰かの、いくにんかの所有地が新設道路建設地になったと踏んでいる。もう同じむらびとだと安心したデボオは、俺のことを執拗に詮索し吹聴して回ると同時に、なんでも話した。税金のごまかし方から、役場の予算のパクり方まで。せこさと姑息さ満載の裏手口をベラベラ言う。この村いちばんの情報通であるデボオは役場の友達を通して、勝手に住民の個人情報でも漏洩させた。その証拠に、
俺の昨年度の年収の、下一桁すなわち1円の単位まで正確に知っていた。さらには、俺さえ知らない加入している社会保険まで知っていた。
現代においては、デボオのやっていることをストーカー行為といって社会犯罪に認定されている。世間話のあいまに、知ってるぞ、といった勝ち誇った、だらしない顔で差し挟んできた。聞いた瞬間、恐怖を覚えた。暗い想念に気分が悪くなりそうだった。平静を装い、平気を取り戻して適当に話を合わせたが、デボオの犯罪は明確だった。それをしたがるやつの性根が見え透いて気持ち悪かった。
だが、告発はしていない。役人も村人なので口裏を合わせて隠すことは目に見えているから。隠さねばならないことは平気で漏らし、漏らさねばならないことは隠し通す。物的証拠のつかめない告発は、冤罪的嫌疑としてひっくり返されるのがオチだ。
村人の共通の隠し事がおそらくそれだ。彼等の連帯感は、町の税金をせしめて裕福な暮らしをしているという罪悪感からきているのかもしれない。
慰謝料も含めた買い取り価格は相場を大きく越え、しかも村で諍いが起きないようにうまく分配したものと観ている。なぜなら、このあたりの者たちが皆、およそ学歴や勤務先、労働力とはかけ離れた、豪勢な持ち家に住んでいるからだ。いちにち他人のうわさ話ばかりしていてあの生活はないだろう。米の公定価格買い取りによる濡れ手に粟の蓄財があったにせよ、だ。
おそらく、誰かの土地が道路周辺の部分まで含めて、たとえば五億円ほどで町に売却された。昭和四十年代、五十年代の5億円は今に換算すればいくらだろう。もちろん、それにはこの辺り選出の議員がからんでいる。デボオの亡き父もやっていたそうで、町に貢献する仕事をしたとその妻(デボオの母親)は言ったが、議員一家が爪に火を灯す貧乏暮らしをしていなければ、どんな疑いの目で見られるか知れたものではない。
いま現在、町議をやっている者の家族や親類縁者が商売や会社経営でうまくいくのを不公正のようにデボオが咎めるのは、以前じぶんたち家族がやられていた腹いせなのかもしれないと秘かに思う。
その金の半分は所有者がもらい、残りの半分を村人の頭数で割って均等に分けた。そうでも考えなければ、あの堅牢でおおきな家は建たない。しかもどれも同じような作りをしている。同じ建設会社が請け負ったかのように。デボオに言わせると「みな、あの作りが好きだから」らしいのだが。
持ち家だけではない。昭和四十年代に、東京でひとりぐらしの学生生活をおくった者までいる。それも私学の理系。一部上場の一流企業に勤め部長くらいになった者しかできないことを、田舎の田子作にできるとは、どういうカラクリか。
デボオにしてもカガシの弟にしても、あの年代の者が私立の、それも理系の、しかも3流大学に下宿して行けるとは、どれだけ金があるのか。遊びの時間まで金で買ってもらっているのに、いやそれゆえにか、かれらは学歴に対するコンプレックスがひといちばい強い。
先に町の予算から出した金は、新設道路を有料にすることで埋め合わせた。すなわち、村人に渡った金は通行する一人一人から長年にわたって徴収した一五〇円の一部で賄ったというわけだ。町の者から集めた税金でなく、通行する別の自治体に住む者たちからむしり取ったのである。地元の者たちは抜け道を知っていて、料金所を迂回してその有料道路を使っていた。
時が経つにつれ、裏技を知った他自治体の者たちも村の農道を抜けるようになったので、空き缶やら弁当箱が田畑に投げ捨てられるようになった。それなのに、文句ひとつ言わずに清掃作業していた村人たちは献身的なひとたちだと思ってみたのは、まちがいだった。
まだ理解できないか? では、はっきり言おう。二束三文の田んぼと山を道路に変えて儲けたんだ、解るか。
もうすこし親しくなったなら、きっとーーそれは、もっと人権を蹂躙され、ケツの穴まで覗かれ暴かれ言い触らされ弄ばれた後のことだろうから、おぞましいことであるので、要らないけれども、デボオは村の秘密を打ち明けたことだろう。
金の使い方を知らない奴は、幸せを買えないどころか不幸を買いまくるので、別にうらやましくもないし、たいした秘密と思わない。土地売却にともなう不公正な不労所得など、日本中いくらでもあることだ。気をつけなければならないのは、それが略奪になっているか否かである。えぐったら、えぐれる。
ともかく、カガシの言は「オレの家を知れ。遊びにでも来れば、よきにしてやる」といった親切心から大きく出た非難であったとも取れる。きっとそうだろう。みんな家族。プライバシーなどない。困った時はお互い様。といった助け合いの(素振りをした)地域共同体の姿なのだ。きっとこれが縄文時代から引き継いできた庶民、皆の衆の輪の在り様なのにちがいない。ーーと思いたい。
だが、《独立した個人の互恵関係》を志す俺には、《未成熟者の馴れ合いの集団思考》にどっぷり漬かるわけにはいかないし、浮く。比重がちがうから。媒介物水はこの場合、3次元物理世界(空間)というわけだ。彼等はそれの構成物である。
