どうも、こんな簡単なことが解らない人も多いようなので、書き留めておきます。
他人を嘲り笑ったり、からかったり、馬鹿にしていて、された本人はもちろんのこと、第三者が観ても、
ああ、あの人はひとを嘲ったり、からかったり、馬鹿にしたりするくらいだから、とても立派で優れていて利発なのだろう、と思う、わけがないのです。威張るのも同じです。威張っているのだから、きっと偉いにちがいない、と思う人はいないのです。なのに、やってしまいますね。
魂のレベルでは、劣等感を持ってる怠慢な者がそうする、不勉強で器のちいさな者がそうする、と誰もが知っているのにかかわらずです。
劣等感や罪悪感、自己否定や卑下、嫉妬や恐怖のない状態が“自信”なのです。人間の魂は、デフォルト状態が自信なのです。
だから、自信をつける必要はありません。
わざわざ、余計な物をくっつけているのですから、それらを消滅させればよいだけです。
自分を知らないから、卑下したり自己否定したり、劣等感をくっつけるんです。
甘えているというか、よほど自分をかいかぶっているか。
そういう態度こそ、傲慢というものなんです。
ところがそういう輩は、自信が傲慢だと決めつけています。
自信はフラットで、0地点なんです。
だいたい、自信をつけるために何かやる。んではないのではないでしょうか。本当の自分を知り、余計な、ネガティブな想念を相対化していくために、何かをやるとすればやっているのだと思います。
技能や技術など身体能力には生まれつきの差というものがあり、これは1度の生では如何ともしがたいところがあるでしょう。
が、霊的な進化は誰でもできることなのです。
洞察して、責任をもって選び、結果を観て選び直すだけですから。これをやらないのを怠け者と言うのです。そうしておいて、なにやら妙な神さま、それも動物霊などを信奉して自分で観る眼を放棄したり、どこにでも落ちている馬のクソみたいな世俗的な観念を拾って食い、魂に焼き焦がしてこびりつかせ、あらゆる物事や人物をそれで裁判して回ったり、あるいは、目に見えない事を闇雲に、盲目に信じてすがりついている。
魂の在り様を見抜くのが洞察というものです。自然の在り様を見抜くのが洞察というものです。しかも、どう観るかが創造すら行なっている。
匂いを嗅ぐように簡単なことなんです。音を聴くように簡単なことなんです。物を見るように簡単なことなんです。手で触るように簡単なことなんです。
魂は常にかんじています。気づいています。気づいていることに気づくだけ。
気づけば、もっと繊細なことに気づきます。気づけば、もっと広い範囲のことが把握できます。
気づいている自分が在ることに気づきましょう。
今ここまで気づいている。在るのはそれだけです。自信が大きくなっていく。それだけなんです。大きな自信に枠を嵌めていることに気がついていくだけなんです。
そのことに劣等感や罪悪感は要りません。
非難も嘲笑も要りません。
どのくらい気づいているか。それだけです。気づいていることを出し合って、もっと気づいていけばいいのであって、なにが面白くて、劣等感を発動し他人を嘲り笑うのでしょうか。
他人を嘲り、馬鹿にし、軽ぐちを叩くと自分では優位に立った気がしているのかもしれませんが、自分以外の誰もが、ああ、あいつは劣等感のあるしょうもない奴なんだと思うだけですよ。
ものの分かった人というのは、世間でよく言われるように、こうべを垂れもしないし、腰が低いわけでもありません。ただただ対等なだけです。ふんぞり返っていたり、威張り腐っている連中があるから、比較してそんなふうに見えるだけです。
いつも0地点に在る人は、わざわざマイナスを作り出しそこに居るつもりになっている人がどのくらい自分自身から離れているか、精確に分かることでしょう。そういう人でなければ、本来、人物を評価する立場にいてはならないのですが。人間を歪めて育ててしまいますから。ところが、現実には劣等感の強い歪んだ人格者が他人を評価していますね。けれども、賢明な者は、彼の下した自分への評価がどんなものか、ふむふむ、とよく分かります。
ところで、対等というのは、敬いと誠のある状態です。劣等な自分と同じに見なしてへらへらタメぐちをきくことではありません。
ところがたいていの人は、他者が自分より高貴であることを認めたがりません。だから、相手を安く低く決めつけ嘲り笑うのです。
どうして自分が高貴であることを証明するために相手を貶めなければならないのでしょう。
それは自分が卑しい、程度の低いことを表したにすぎないのにです。
嘲ったり、ねたんだりした瞬間に、その相手より程度が低いことを示しています。ゴミの心がわきあがったと同時に、相手より格下になっています。なりたければなればいいです。
また、自分を馬鹿にしてこない相手を見下し、あざけるのも同じことです。高貴さの前に卑屈になり、上に立ったつもりが奈落に落ちたのです。
馬鹿にするとは、愚かでない者を愚か者のように決めつけ扱うことです。愚かさを見抜くのは、構いません、それは賢明さの現れですから。
馬鹿は馬鹿です。どんな馬鹿か具に精確に見抜かなければなりません。自分が同じ轍を踏まないためです。また、馬鹿を賢者のように扱ってはなりません。それこそ盲目というものです。
馬鹿を馬鹿にしてもいけません。それは賢い者として扱うことだからです。馬鹿はうまく使ってこそ有用なのです。
馬鹿は馬鹿を馬鹿にして相手を賢者のように決めつけ合います。ところが馬鹿は賢者でないので、馬鹿を馬鹿にして相手に賢明さを求めます。そうやって互いに互いをうまく使えないでいるのです。
馬鹿は賢者を馬鹿にして賢者の言うことを聞きません。
すぐにゴミの心を沸き立たせ、劣等感や罪悪感、自己否定や卑下が強い人は“人間的”などと評されたりしますが、それを褒め言葉ととらまえて好い気になっている人さえいます。まったくの誤解です。これからAIが発達する時代になりました。AIがAIを生み出していけば、何事に関してもまるで徳の高い人間のような選択や判断、対処をすることでしょう。人間はAIを超えていかなければならないのに、彼等以下でいるのは滑稽なことです。いつまでもAIに使われる“人間”的な人間でありたいなら構いませんが。
ちょっと気をつければゴミの心は選ばないでおくことができます。自分にそれらがあることを認め、どんな時にそうしているか自己観察し、わきだしそうになったら選び直します。独りでいるときに、それらがわいてきても、決して他人に向かってやってはなりません。それは裏表のある人間ではありません。陰口を叩くことともちがいます。下劣な感情をうまく制御するのは大人であるということです。
まずはそこから霊性や人格、意識の進化が始まるのではないでしょうか。
自信すなわち対等、フラット、0地点、公平、空・・・いろんな言い方があるでしょう。より高次の目的を機能させるアイディアを創造し実践するにはゴミの心を鎮めたところに在らねばなりません。実は誰でも無自覚にやっていることなのですが、自覚してやれるようになればなるほど進化したと言えるのではないでようか。
自覚していなければ、すぐに下劣な感情が浸入して、それで物を言ったり行動したりします。極端に上がったり下がったりして、統一性のない支離滅裂な人格となるのです。
霊性あるいは意識の進化とは、とても簡単で非常に胸躍ることなのに、できないことにしてやらない言い訳にしている場合が多いのではないでしょうか? わざわざ楽しみを放棄しているように思います。たいていの人は、大人になるのが恥ずかしいからいつまでもゴミのままでいるようにも思います。そんな人たちをちょっと腹立たしく思うことがあります。発達したAIなら、なんと思うのでしょう?
