アパートは通りに面した一階の角べやだった。二、三週間の診療所暮らしのあとそこに移った。喉の爛れはずいぶん癒えたが、呼吸をする度にブーブーと葉っぱの風を切る音がする。やはり突き刺すような痛みは残り、常に不快な違和感をともなった。ダニエルのお陰で、奇しくもわたしはパリに定住する機会を得た。〝目的〟を失ったあとだったが。

パリにいくつかあったゲットーにはユダヤ人が住んでいた。前に、イザベルと暮らそうとして、気まぐれに、パリに定住してやろうかと仮の住まいを求めたことがある。土地を持たぬ者のひとりとして今回こそそこに居るべきであった。が、むしろ先住人たちに拒まれた。

すなわち、ユダヤ人としての自覚がない。それが理由だった。うわくちびるに掛かりそうなユダヤ人特有の鼻先とも、かといって鷲鼻のローマ人とも違い、金系の焦げ茶色の髪はケルト・北欧種とも異なり、肌もエジプシャンと異なるセム系、しかも鳶色の目をしていたので、まず肉体的に相容れないものがあった。出生が不明であったので、鏡を見ているような安心感を彼等に与えることができない。習慣はすぐに馴染むとしても。

ユダヤ人たちはしばらくわたしと話し、その態度を見定めるや、誰しも上方に目をそらし首を振った。そして通訳の者に向き直った。かれらの言葉も少しは解るので所々聴き取れた。ルターによってザクセンを追われた者が暫時逃げてきているので今はひと部屋に三家族が同居している状況だということもあったが、通訳が重きを置いて伝えるには、要するにユダヤ人との決定的な違いだった。

〝選民思想〟がない。神に選ばれし者としての鼻持ちならないほどの自覚と驕慢さ。それがわたしには皆無だと言うのだ。

 

ジョルジュが借りてくれた五叉路をなす建物の端がわたしの新しい住まいとなった。ここに来て十日、剃らずじまいだった顔の鬚が伸びてきた。ナイフや小銭を入れていたバックはあの時没収された。司祭達の餌食になったことだろう。

パリのほぼ中心にあるこのアパートは、学生街にあるため格安という話しだった。あまりにもパリのど真ん中であったので異邦人の存在がかえって目立たなかったかもしれない。

部屋にはみすぼらしいベッドだけ。石組みの床にはひとつ、乾いた泥を塗った古い木桶が無造作に置いてある。流しの上についている窓、ーーこの部屋でたったひとつの窓を開けると、往来がみえた。馬車、荷車、工夫、農夫、商人、兵士などが行き交い、近づき遠ざかるひづめの軽快なリズムを割くように、時折、若駒のいななきが空宙に放たれた槍のように飛ぶ。ソルボンヌの学生たちがラテン語で話しながら闊歩している姿がある。画学生がキャンバスを小脇に抱えていそいそ歩いて行く姿がある。大人たちとは背筋のソリが対照的な若者たちも、時には肩を丸めることがある。

古道具屋で見つけた破格のかなえ火鉢を持ち込んだ。ポケットに残っていた干涸びた小さなトリュフと替えるのを店主は喜んで承諾した。ずっと後になってそのことを知ったジョルジュが、払い過ぎだ、と言った。

薪の煙りを外に出すため窓を開けるとかえって寒かった。仕事を求める男たちが、持っている服を全部着込み携えたワインの壜を時々ラッパ飲みする姿が絶えないのはパリの冬が目の凍みるくらいに寒かったからだ。

六方を壁で仕切られているこの部屋よりも森の方がなぜか温かかった。うず高く枯れ葉の堆積した樹々の間に横たわるのがどれだけ快適だったか。冬はローマやニース、ナポリ、セビリア、バルセロナあたりで過ごすことの多かった身にとって、長期に渡るパリの冬はなぶるように体の先端部分に噛み付いた。暖炉の入っていた診療所と違い、顔中体中の打撲の痕がキリキリ痛む。これまで気づかなかったが、片方の目はぼやけて見える。

旅の途中によくやるように、いっそのこと何かケモノを持ち込んで体を寄せ合っていようかとさえ思った。かなわないので古着屋で見つけた馬革のコートを手に入れた。ずいぶん年季のいったものだった。以前は貴族が着ていたのか。品の良い物だった。それが古着屋に流れて三人くらいの貧乏人に着古され、汚れ、やぶけ、擦れている。ところどころにほころびがある。足元に目をやった店主に、ずいぶん値をふっかけられた。おかしなことにどの店に行っても、金持ちは値引きで買うことができ、貧乏人は割り増しで買うハメになる。ともかくここでは、何でも金で買うほかない。

フランネル(とは言わなかったが)綿織物のジャケットと赤いタータンチェックのチョッキ、それから、裾の短い驢馬革のズボンを穿いていた。何年もの間、この組み合わせがわたしのお気に入りであったし、トレードマークになっていた。

驢馬革のズボンは夏は涼しく冬は温かく、なかなか秀逸だった。が、おかげで滑稽な取り合わせとなった。χが死んだとき、革加工のできるジプシー仲間がズボンをあつらえてくれた。(ショルダーバッグも)何年も穿かずに、時には枕にしたり、座布団にしていたのだが、数年前におろした。

馬革のコートは、その全てをすっぽりと覆い隠した。

 

 

 

 

※ゲットーは一般に、一九四〇年代にヒトラーのナチスドイツによって設けられ、善良なユダヤ人が不当に差別され強制的に押し込められ弾圧された、そしてドイツ敗戦後はなくなった所だと信じられている。ところがユダヤ人居留区の歴史は古く、少なくとも一二〇〇年代にはすでに存在した。公用語としてゲットーという言葉が公式文書にも用いられるようになったのは一五六二年からで、制度として導入されたのはそれ以降のことであるが、ユダヤ人共同体自体は一五〇〇年代のヨーロッパにはあちこちにあった。いつの時代も異端視され強制収容所の意味合いが強いとされるが、選民意識のあるかれらはむしろ望んでユダヤ人だけの共同体(コミュニティ)を形成していた。

国土を持たないかれらは蒔いた種がたくさんの実をつけるように、金銭という形で富を殖した。それが領主や王には領地内の金を盗み奪い減らしていると映ったようだ。儲けたカネの一部はみかじめ料のように寄進されたが、タイラー(トーラー)だけがマコトのものであとはまがい物だとして受け付けない頑強さが、宗教者たちには鼻についたようで一般市民よりも激しく憎悪していた。

一族の誰かが〝観た〟ことはすぐに家族の間で共有され、三日以内には民族の中に広まった。彼等はドイツではドイツ人の悪口を共有し、バスクではバスク人の悪口を共有した。彼等にとっては悪口でなく、うまく生き抜くための知恵であった。諍いや正面衝突を避けるための。また、こうすれば商売がうまくいった、こう考えたらうまくいったということも共有した。

ユダヤ人に、ヨーロッパで嫌われていた金貸しをさせたのは、権力者であったのだが、金を貯えたので力を持つようになった。それがまた、庶民から貴族までしゃくに触った。

 

 

※五叉路 パリには多重交差点がたくさんあった。日本の太宰府や京都や(札幌・釧路)のように碁盤目状に整備された街並でないのは、元々シテ島を中心にカタツムリの殻のように渦巻き状に形成されていったからであろうが、どこかを中心にして『全ての道はそこに通じている』という観念があるからではないか。戦国の世に作られた道が入り組んで迷い易くなっているのは、城の守りに徹しているが、太宰府や京都が碁盤目状である訳は、平等(平和と対等)思想によるものと推測する。