ひとはおらのことをぬすっとと言うだろう。子供を使って盗みを働く極悪人だとな。だが、おらン中では、ちがうんだ。じぃっと観ているなんかがある。人間の世界でやっているおらをじいっと黙って冷酷にながめているおれ様がな。

なにかをやる。すっと、ひとはあれこれ言うじゃろう。だが、おらには、やったことから、なるほどこういうことか、と分かることがある。ひとがおらを咎めても、おらは分かったことで満足しているから腹も立ちゃしねえ。

いくさに行って討ち死にする者を、愚か者呼ばわりするもんもいるだろう、だが、おいらはそうは観ねえ。ひとりひとり経験しているこたあちがう。ある者はみじめな気持ち、ある者は栄光、ある者は騎士道を示した満足感。またある者は社会の矛盾への苦悔。それぞれが経験してえことを経験して死んでいるんだな。

こんなことを言ったところで、誰もわしの言い分なぞ聞き届けはしねえ。じゃが、それでええんじゃ。それで本望なんじゃ。

もしわしが役人に取っ捕まって死刑んなっても嘆くでないぞ。いつかそういう日がくるじゃろう。悲しむのは構わない。いたもんがいなくなりゃあ誰だって悲しい。だが、おらが不甲斐ない思いで死んだと思っちゃ、いけねえ。死にザマってのは、ずうっとそんな風に生きてきたから示せるもんなんじゃ。そして本人はもとより、分かるもんには解る。

おらはなにがなんでも、おらの思いのままに死んだんだ。なにがなんでもだ。

強くなっていくってのは、こういうことだ。解るか?

生きるっちゅうのは、てめえの強さに目覚めていくっちゅうこった。人はパンのみに生きるにあらず。イエスさまは全くテエしたことを言い残しておいでになる。

黙って親方を見つめているだけだった。そして、鉛色の寒空の下、親方がしょっぴかれて行く時に叫んだ言葉が思い出される。

ーー生きるんじゃジョバンニ、生きろ!