数時間して目が覚めた。なにか夢を見ていた。眠っている時は痛みも忘れる。だが次第に腫れぼったい違和感が喉に蘇ってきた。痛みと共に何か食道を押しのけるような圧迫感と大きな鉛の玉があるような、つっかえていて言いたいことを口に出せない抑圧された気分だった。

さっき問いかけたことへの応答はーー。わからない。しかし喉を潰したといことはもう〝教義の復唱の必要なし〟と言っているのに等しい。こう思えばすぐに、二度と減らずぐちを叩けない姿で生きながらえろ、というあざけりが聴こえてきそうだがーー。が、言葉を他人に伝えられなくとも、これでわたしは己の信仰どおりに生きる自由を手にしたようなものだ。そんな考えが浮かんだ。しかしこれではまだ慰めの域を出ていない。いったいわたしはなんのためにこんな目にあっているのか。分不相応の壮大な問いかけが心にわきだした。


イエスは、いまやその天国を愛する者を多数持っておいでだが、その十字架を担う者はごくわずかである。※トマス・ア・ケムピス 「キリストのまねび」


ふと、いつか場末の劇場で演じた役の修道士が言った台詞を思い出した。


無実の咎(とが)で※三十九回の鞭打ちにあったイエス・エマニエルのことを思い出した。

いったいどんな気持ちで処刑に挑んだのか。

「事は終わった」

とは、どのような心境から出てきた言葉だったのか。そこには、悔しさも恨みも、微塵も含まれていない。ただ、その成り行きを天の配剤と観た。嫉妬と罠と疑獄、挙げ句の裁判と処刑。身から出た錆ではなく、天にまします父が地にいる子にとって最善のことを送り込んだと言い切れる境地、覚悟、諦観。

なにかを世界に示すため。いまこうして、わたしが同じような目にあった自分を振り返って覚ることを知っていたかのような出来事。それを千五百年に渡って響き続けるために。

だが、一体わたしはなんのためにーー。幼少期の罪の罰か? どんな罪か? あれは罪だったのか?



              


わたしは夢を一から反芻する。印象的な部分の前にも後にもいくらか見たように記憶しているが思い出せない。親方が出て来て何か言っていた。夢だったのか? いや、わたしが幼い頃に実際にあったことを思い出したのかもしれない。見ていたのは、確かに親方や兄弟たちのことだった。


仕方がないので、砕けた夢の断片を手がかりに昔を思い出した。


親方の声が聴こえてきた。

ーーいちんち、野良仕事を手伝えば、夕めしくれえは食わしてくれら。


暖炉にちらちら火が揺れている。親方は、何か熱い飲み物を作ったカップを手渡してきた。


フィレンツェはイイところだぞ、なんせわしがいるからな。と笑った。※花の都フィレンツェ。てめえのいるとこが悪いってんなら、てめえがその悪いのに手を貸しているってこった。


なにかそんなことを挟んで言って親方は愉快そうに笑った。


生き抜くということはな、よく聞け、ジョバンニ。醜く逃げのびることじゃあないぞ。強くなってくってこった。

華麗に渡り合っていく。てめえのやることを芸術にまで高める。誰が解らなくとも構わねえ。

死を以て何を示すか。それが生きザマというもんなんだ。


自前の発酵酒を飲み干して親方は続けた。


そこでじゃ、

いいかジョバンニようく聴け。

真実というのはな、ーーイエス様のおしめしになったことでもじゃ、ローマ様のおっしゃるデウスのことでもないんじゃ。

今を最高に生きるためのアイディアなんじゃ。

ギリシャの言葉でイデア。※い出ア。いは強調語、アは初源のことだそうじゃ。すなわち、この世にい出た神さまのことじゃ。解るか? てめえから飛び出した最高の生き物! それがアイデア、神様なんじゃよ。


そう言って親方は愉快に笑った。


アイディアじゃあ、

それがホントかどうかぁなんぞ、確かめようがねえ。

あるとすれば、てめえの人生をもっての他はねえ。

その場その場の慰めかもしれねえ。

だが、こう考えるより、こう考える方がしっくりくる。胸躍るのなら、それがおめえさんにとっての真実なんじゃ。どう考えれば、今とこれからをウキウキできるか、その案ってこった。嘆くよっかは、言い訳の方が。言い訳よっか前向きな考えの方が、てめえがこれと選んだかんげえがてめえにとっては真実なんじゃ。

悪い事が起きた。不幸だ。悲嘆に暮れる。恨み憎しみ。復讐だ。そう考えるのが今を最高に生きる事だと死ぬ時に後悔しねえのなら、それが真実だ。おめえさんにとってのな。だが、同じ過ちは二度と起こさねえ。今度はもっとうまくやる。もっと至福の経験をしてえと思うのなら、物事の見方を変えなきゃなんねえ。そいつが、ごまかしはまやかしにすぎねえと見極めがつくまではごまかし続けるこったろう。本当にこれがごまかしでもまやかしでもねえと思えるかんげえに至るこった。これのためなら命を捧げてもいい。思い残すことはなにひとつねえ、ってアイデア。それが、おめえさんの神さまなんじゃよ、ジョバンニ。


幼年のわたしはじっと親方の顔を見ていた。



三十九回の鞭打ち


イエスは39回、鞭で打たれたということが通説だった。



※トマス・ア・ケムピス


現代ではイミタチオ・クリステの言葉として知られている。


い出ア

もちろんこれは日本語である。実際には、I de A といったようなことで同じ意味内容のことを説明した。形而下のものが形而上の物に現れることを説いていた。