噓だ。お前は、予め調べたあとに話しを創作したんだ、という疑いや決めつけについては、わたしは有効な反論方法を持っていない。そう決めつける者もまた、決めつけの確証を提示しえないだろう。が、それはもうご自由に断定して下さいませ、としか言いようがない。
前世や転生について、あるいは目に見えない世界の存在について、頭から完全に否定したり、ないと決めつけてご安心ください。その方が騙されることもないでしょうし、きっと今時の科学なのでしょう。解明せずに裁判して回るだけの。探究心や創造性を発揮せずに生きる事ができ、極めて安逸に生きていけることと思います。理解し易い理屈を採用して解った気になるのもよし。自分が知っていると思っている世界が全ての、なんでも解っている者として人生を謳歌されるのもよし。そうやって悪を裁定して回ればよい。目に見えない世界の《存在》と事実の有無を混同し、同一視し、区別のつけられない駄目の持ち主はさぞかし幸せなことと思う。そうしたゴチゴチの理性主義者は、茶色に濁っているから同じだと平気で糞汁を飲んでも恬(てん)としていられるのだから。
前世など思い出す必要もない上に、認めようが認めまいが自覚のないまますべて自分の有様に出ているものだ。知らぬが仏のひとも多いことだろう。特に怒りながら全否定する人など、知らないに越したことはない。知れば霊的進化という目的からすれば逆効果であるかもしれない。今を誠実に感謝に満ちて自然体で生きることで霊的進化が加速し、未来を含む過去生を思い出すことがさらなる進化を促すならば思い出すものだろう。
しかし読者がうたぐる以前に筆者であるわたしすらわたしから出てくることに対して懐疑的なのである。だいたい、時々引き合いに出されるレオナルド・ダ・ビンチにしても眉唾なのだ。自分で書いておきながら、本当に彼がそんなことを言ったのか? だいいち、本当にわたしは会って話しを聴いたことがあるのか? 常にその疑問がつきまとっている。
調べていくと、ダビンチの名は、あとの時代に『ゲーテ曰く』と、もっともらしいことを述べる際の枕詞にその名がついたように、どうやらこの時代には、持説に権威をもたせるために出汁に使われることがあったようだ。だが、少なくとも、彼の口を通して語った事はわたし自身の思想・信念ではない。来る想念をなんとか現在の日本語に翻訳しているから、文章がたどたどしい。いまのわたしの信念や観念、認識を破った思想や言い方をしなければならないので、書いていてちょっと苦しいかんじがする。どうにか捩じ曲げて、わたしの観念が納得するように押し込みたい誘惑に囚われるのである。今現在、今生のわたしもそんなことを考えないし、中世に生きたわたしもまたそうは考えていなかった。時代の常識でもなかったろう。おそらく密かに伝えられていたアトランティスや宇宙存在から受け継いだ密教的知識であったにちがいない。また、彼が降霊した情報だったかもしれない。
ふたつの生にひとつだけ共通するのは、今生のわたしがそうであるように、過去生のわたしも真理に貪欲だったということだ。この世に在りながら、あの世のように生きたい。元々もっていた宇宙的発想を必死に人間界で取り戻そうとしていたのである。次々にやらなければならないことを見つけて己を忙殺させたり、その時代の価値観を登り詰めるという生き方でなく。肉体をもって、過去の記憶や霊的な真理を忘れた状態で、つまり皆と平等な一個の人間として取り戻し保持したい。その思いから、過酷な境遇を選んだり、旅に生きたりしたのである。
初めて人間に転生した頃にはもっとたくさんの、そして深い真理を知っていた。が、それはほとんど理解されることなく、また特別扱いされ、ひな壇に置かれたりして、不甲斐ない思いをしたのであろう。皆と同じように忘れきって、それでも思い出し、真理に生きる。過剰な自作自演じみた努力をしていたのである。その反復はこんじょうに置いても三十歳まで踏襲された。
そんなわたしがダビンチのような存在と出会い、深淵な真理を引き出していたとしても不思議ではなかったのではないか。今でも、図書館の本を読みあさり、古今東西の思想、神秘、森羅万象の出来事を記録した浩瀚な書物が部屋の壁を埋め尽くしている。そしてまた、歩いて歩いてそれらを求めていた数々の過去生を思い出す。今生においては三十一歳までがその期間であった。だが、これらのことは、知っていても、たいていは馬鹿にされるのに役立つだけの代物だ。聴く耳をもたない、なんでも知っている輩から全否定されるのがオチの〝賜物〟だ。また、本を読むことは目的ではない。どんなにたくさんの本を読んでも所詮〝知っていること〟しか分からないものだ。字面と論理にだけ引きずられれば、その文章が何を伝えようとしているかを見抜き同調することはできない。分かって分かっても、もっと奥がある。知っていることを経験して知り、さらに言葉で確認する。その螺旋状の繰り返しが霊的進化のプロセスであるのかもしれない、と覚ったのは十七歳の時だった。(その時の日記がいまでも残っている)そしてよく付加されるように、ゲーテが言ったか否かの真偽よりも、その言葉によってどれだけ魂が目覚めたか、その方が重要であると思う。
しかしわたしの小説には噓がある。どんなに正直に吐露しても、不明なことにいくら注釈をつけても、表現力の拙さから生じる誤解を免れえないのだ。その点が、この小説における欠陥である。
