ぬすっとが岩にしがみつき、持っていこうとしている。

こら、何をしている」

「これはオラのもんだ」

「なにを言う。これは私の物だ」

「昔から、オラのもんだ」ーーーーーーーー尖閣の領有権主張

「噓を言え。これは昔から私の物だ。ほら、ここに証拠がある。お前が自分の物だったと言うなら証拠を出せ」

「うるさい。お前は、昔、オラにひどいことをした。だから、これよこせ」ーーーーーーーー南京大虐殺の捏造

「出て行け」

ぬすっとは大声でわめき始める。騒ぎを聞きつけて野次馬が集まる。

「これはオラのもんだ。オラのもんだ。あいつはひどいことをした。ひどいことをした」ーーー靖国参拝反対運動 世界中での反日プロパガンダ 噓は100万回言い続ければ真実になるの手

「噓はやめろ、このバカ」

「バガっていたな、バガって。差別するな。倭人の分際で」

「なに? 差別しているのは、お前のーー」

「ケンカはいけない。いけないあるよ。もっと、仲良くしようよ。あ、そうだ。多文化共生だよ。いつまでも自分にだけこだわってはいけないある。これからは地球人あるよ。いいものは世界のみんなで使うあるよ」

「なにをキレイゴトをほざいているのか。だいたいお前は、他人の命や財産をたくさん盗んできただろう。他人の悪をあげつらう前に、自分が悪いと言っていることをやめたらどうなのか、ええ?」

「おまえいいから、もと働けよ。平和のために手をひけよ。これくれたら戦争はないあるよ。うちはいろいと兵器そろえたね。そうそう。憲法9条まもれよ、世界でいちばんよい憲法あるよ」ーーーーー憲法固持活動 世界とは中国のこと ※1


これが、これまで、特に1990年代以降、中韓のやってきた政府維持活動であった。それに付随することはいくつかあるが、いずれにせよ、ぬすっとの言いがかりに過ぎない。略奪によって政権を樹立し、略奪して肥大してきた彼らは世界中を飲み込み、世界中を自分たちの所有にするまでやめられないだろう。であるから、彼らの言っているデタラメな領有権主張も歴史捏造も、かれらの目的に照らせば、正しい。非常に有効な手段だったのだ。なぜか? 日本人がお人好しだったからである。(逆に、ひとたび気づいた時にはこれほど恐ろしい性質もないのであるが)

複雑に絡んでいるように見えるが、冒頭のやりとりが南京大虐殺とその他の歴史捏造、日本罪悪論、グローバリズム(あるいは共産主義・多文化共生)の正体なのである。要するに、日本人が平和ボケをして理想に夢遊している間に欲しい物は手に入れておこうとしていたのだ。なるべく気づかぬよう、目を覚まさぬよう注意して、理想で頭を冒し、盲目に押し込んで馬車馬のように働かせて利得を吸い取っていたのである。日本を精神的、文化的に侵略し、経済を餌に政治を乗っ取って言いなりにしようとしていたのである。


いまこそ、わたしたちは次のことを思い出さなければならない。


戦争が創られているのと同じで、平和もまた創られている。


いつまでも同じ方法で平和が維持され、またより高度な平和ができあがっていくと思ったら大間違いだ。世界の状態はわたしたちの意識状態の現れである。わたしたちの意識が高まらないかぎり、平和の在り方も高まらない。


支那鮮の反日プロパガンダに対して、しゃにむに史実の立証にこだわったり、遵法精神に拘泥する者がある。だが、彼らがなんのためにそれをしているか。目的概念を見失ってはならない。ぬすっとが力づくで他人の物や権利を奪おうとしている折りに、おいきみけしからんじゃないか、証拠を出せ、と迫り、その証拠の立証性のなさをつつくのはなんの役に立つか。国際法を守れ、仲裁裁判所の判決に従えと言っても、目的がちがうのだから、彼らには押し付けに映るだけだろう。彼らに言わせればそんなパカなことをしてきたのがこれまでの日本人だ。彼らの目的は飽く迄、(近視眼的には)欲しい物を手に入れるであるから、日本人の正義感や価値観など聞き入れるわけがないではないか。理屈に耳を貸すくらいなら、初めから力づくで物を盗ろうとするわけがない。

ところが日本人の目的が法律を守ること、あるいは歴史の正しさを立証することに終始しているから、中韓に舐められっぱなしなのだ。ではたずねるが、彼らの提出した証言や物証が立証されたら、言いなりになるのか? どこまでもどこまでも? ※2

彼らの目的は日本侵略だ。自国民に飽き足らず、日本人をも隷属させ搾取しようとしている。そこに立証だの遵法だの目的の異なる者にいくら言っても聞くわけがない。やらせっぱなしにしておいて、一体わたしたちの独立性は高まるのか? 彼らの自由だけを尊重することに気高さがあるか? 彼らの意図が侵略・略奪であることを見抜けないようでは、重度の夢遊病者である。救い難い夢遊病患者であると、太鼓判を捺してあげよう。


ではなぜ、通常は遵法精神を貫くか、あるいは科学的実証を重んじるか。

それはわたしたちが日本人としての矜持、気高さを表現するためである。法律を守ったり実証主義であることは目的でない。であるから、非常時には法を超えるかもしれない、科学の実証を超えているかもしれないのだ。これは法を無視したり破ったりすることでもないし、支離滅裂な迷信に溺れることでもない。より気高い目的を達成する気高い手段なのだ。救急車に他の車を超えた法があるのと同じことだ。


『反戦』が、平和創造の役に立たないことは、すでに第一次大戦のあとに解っている。だが、反戦が戦争を誘発し、侵略を誘致している。と聞けば、おかしいと思うだろう。原因と結果。あるいは期待や目論見と結果が一致していない。整合していないと思うかもしれない。だが、よくよく物事を観察すれば、場合や状況、ひとびとの意識状態によって同じ手法が異なった結果を生んでいることが理解できるはずだ。

戦争ではなく平和を創造するのに整合しているのは、戦争を忌み嫌い恐れ憎むことでなく、わたしたちが平和で在ることだけだ。異なった概念を対立させ他方を滅ぼすことが自分を自分足らしめるという幻想でなく、異なった概念こそが自分を際立たせ進化に寄与していることを思い出すことだ


英仏では戦後、あまりの反戦キャンペーンが進んだために、ドイツの擡頭をゆるし、周辺諸国との軍事バランスを崩したことが第二次大戦に踏み切らせた、という反省がある。もちろんそれは英仏の言い分であり、ドイツにしてみれば、戦争なくしてベルサイユ体制をなくすことができればよかったのかもしれない。あの時代の戦争は、世界に恐怖と不満が渦巻き、憎しみと恨み、対立がひしめいていたからこそ起きたのもであり、戦争でそれが解決するどころか、醜悪なまでに助長されただけだった。


いまはどうか。第二次大戦後は厭戦ムードがただよい、反戦が世界のデフォルトになった。著名な者たちはこぞって反戦を代弁し、人気を博した。日本は火力戦争に参加しなかったために、反戦が戦争を防止してきたかのように見えた。憲法9条がそれをなしたように見えた。戦争を起こそうとする為政者を押さえつけてきたかのようだった。

たしかにアメリカに押し付けられたような占領下憲法を楯に、日本は再軍備を断り参戦もしなかった。大東亜戦争時の日本人のあまりの強さに下手に武力を強化させれば今度は世界を制覇してしまうのではないか、と思わせていた。


だが、同じ手はいつまでも通用しない。ありあまる平和の時には『反戦』が平和を創っていると信じられていた。しかし中国の軍事拡大と世界中に広がる爆破テロによって、反戦が平和の有効手段に思えた時代は終わった。いまや『反戦』が戦争創造に一役買っている。侵略の誘致を促している。わたしたちの《敵》は賢いのだ。善いことを悪いことに使う天才である。

『差別』が侮蔑を助長し、『人権』がそれを蹂躙し、『反戦』が侵略を促している。すべて、恐れを利用し、被害妄想と強迫観念を増大させることによって、キレイゴトの裏で自分たちを踏みにじる目的を進行させることに加担している。

安全保障やテロ対策、機密法を議論しようとすればすぐに「戦争になる!」だの「言論弾圧だ!」などと騒ぎ始める。

(戦争になったら、どうしよう)

(徴兵になったらいやだなあ)

こうした恐れや不安を利用しているのである。戦前が、敵が攻めて来るぞ、と言って不安や恐怖をかきたてていたのと同じなのだ。恐れを利用して戦争を起こそうとしていることには変わりない。

《敵》はこちらの意識状態を読んでいる。それならこうしよう、と“正しいこと”を逆手に取って利用し自分たちの目的を遂げようとする。


いまやることは『反戦』ではない。平和の創造である。

眼を開いて、ま正面から現状を見つめるのだ。理想や恐れを置いて、今これから自分たちがどう在るのを選ぶか、それに照らして具体的な対策をしていくのだ。


すこし想像してみればよい。

戦争が日本の外で起きようが、中でおきようが、《戦争》には関係ない。問題視するのはそこにある自意識だけである。どんな目的や理由があっても、戦争は悪だ、いけないことだ、と言って、それなら日本国内で無抵抗な人々に対する虐殺や人権の蹂躙があってもいいのか? それは構わないのか。


世の中には、安全保障と聞いただけで「軍靴の音が聞こえる」と癌と老衰で寝たきりになって死にかけていた坊主の格好をつけた高齢のタヌキが跳ね起き「戦争には善い戦争はありません。人殺しは悪いことです。戦争はどんな戦争も悪い。殺さなければ殺される」などとこわだかに主張しているが、一体、罪悪というものがあるとすれば、防衛のために立ち上がった戦闘より、一方的に虐殺され、させることの方がよほど罪深いと思わないのだろうか。そんな態度は潔くもなければ、高潔でもない。醜悪で貪欲な侵略者を増長させ、さんざん苦しみと不快さを蔓延させた挙げ句、やがて悲惨な自滅に追い込む最善の方法にすぎない。

言っておく。有史以来、戦争に悪い戦争は、ないどれも正しく、善い戦争だけが始められたのである。なんらかの目的があり、それを達成するために善い方法であるとして実行されたのだ。悪いと言うのは、目的の違いである。あるいは、結果が意図したものでなかった。さらに、戦争そのものには善悪はない。差があるとすれば、霊格の差があるだけだ。


《失敗》とは貴重な財産である。大東亜戦争と敗戦には、貴重な反省材料がたくさん詰まっている。目的に照らして手段がうまく機能しなかったとするなら、どこがどう在れば善かったのか。それを問い直す機会は無尽蔵に提示されている。ところがそれを、羹に懲りてナマスを吹くような愚行をひとびとにやらせようとしているのが、くだんのタヌキ連中なのである。眉間に長い縦しわの入った人相の悪い者たちだ。弱者や被害者をつくりだし、慰め役を買って出て金を稼いだり、それにまつわる金にたかりついている既得権益の受益者たちである。

もし、醜悪な戦争があるとすれば、それは対立と敵殲滅、被害者意識と復讐の発露であるのではないだろうか。また、それを放置し、増大させ、劣情と獣性のまま好き放題やらせることではないか。いま日本の置かれている状況の中で『反戦』を唱えるのは、それらを助長しようとすることである。


愛する夫、息子、恋人、親友、家族などを亡くした人々が下くちびるを噛み締め、そのやり場のない悲しみを『戦争したわたしたちが悪かったのだ』というところに帰着させ、どこの誰を恨むことなく、失われた魂こと自分を癒やしたという、気高い明治・大正生まれの日本人がいたという側面はある。せいぜい行き先は日本政府と軍部。それも覚悟の上で御国のためにその身を投じ、おおきく包み込む優しさと温かさをもった英霊たち。

だがその後悔と反省を、罪悪感にすげかえて責め立てる浅知恵の支那鮮人に興ざめしなかった老齢者もなかったことだろう。


日本という國はけったいな國である。

世に言われている日本の《侵略》と《植民地支配》は、他者の財産を奪うことではなかった。他者を豊かにし、平和に治めて富ませることだった。その伝統は今でも健在だ。国際紛争に発展しそうになれば「話し合うぞ」と言い「金をくれてやる」と言うのだ。戦争を紙切れで解決できるなら安いものだ。と、そういう価値観があったのだろう。そして自分たちの生命財産よりも憲法9条を金科玉条のように守り、戦争したくないからと『反戦』を訴えるのである。頭が良過ぎて理路整然としすぎて、実状をまったく観察していないとしか思えない。


だが、われわれは進化しないではおられないようにできている。通り一辺倒の『反戦』では平和は創造できない。このことを知り、より高い認識に至るための具体的な鏡が、支那鮮の横暴として映っているのだ。支那鮮人というのはバカ正直というか田舎くさく子供っぽい人種・民族であるから、これまで影に隠れて世界をコントロールしてきた者たちの手法を大声でバラしながら猿マネをしてくれるおかげで、彼らが何をしてきたのか、とてもよく解る。すなわち、被害者なりすましと歴史捏造である。


エゴイズムを超えて、大我に目覚めたら、他者への攻撃は自己への攻撃と映る。また、他者の侵略を許すことは、彼らに重大なカルマを背負わせてしまうと観るなら、それは武力を投じてでもやめさせなければならないことではないか。

平和を創造するには戦争もありえる。戦争放棄が悲惨な戦争を創り出すこともありえる。一方的な侵略をさせることもある。国家権力はより平等で公平で安全な社会を創るために賢明に行使されうる。といった当たり前の認識に高まりつつある。

と見なし、そのように行動することが、その認識を現象界に具現化していくことである。

であるなら、いま起きていることをグローバリムとナショナリズムの対立として悲観的に観ることは、より高度な平和創造の役に立たない。各個人がそして各国がおのおの独立性と主権性を高め、それによってより高度な調和を実現している、と見なさなければならない。本当に自分や自国を豊かにし平和にするには、他国と共に、他国と対等に、他国がより霊的進化をしていくよう促すことである。と捉えて行動することである。同情や偽善、欺瞞はまったく役に立たないどころか、期待したことと反対の、最悪の結果を生む。


戦争か反戦か。

これは一見、右対左の戦いに思える。

だが、もっとよく観察すれば、破壊者・盲目者・未熟者と進化の葛藤が起きているのだ。

創造と目覚めと進化。

これがちょっと見には、右翼と左翼の戦いを背景に芽生えてきている。

それは、《保守》の進化という部分。右翼の佳き者を守り広めていくという部分。

旧態依然の受益者たちが、こことバッティングしている。

戦争は悪だ。国家権力は悪だ。

人権は善だ。平等は善だ。

被害者は最強だ。

と主張して利益を得てきた連中があるのだ。

そんな浅はかで卑怯な生き方はもうやめよう。


両者は対立し勝敗を決しなければならない。

という二項対立の観念を超えて、より気高いわたしたちを表現するための行動を選び取ろう。戦争か反戦かの対立項を超えたところに、平和があるのである。それも、より独立性と主権性を有する、より調和的な平和、である。平和を、戦争と戦争の間の休戦期間であると定義するのは、偏屈者に任せておけばよい。


それがわたし個人の、そしてわれわれの気高さを表現することであるのか。

問われるのは、常にこれである。より高い、誠実さ、調和、尊厳を表現しているか。

相手を自分の一部として冷徹な想いを以てとらえているか。


もし、そう見なしているなら、相手を侵略者にさせることは、われわれが侵略したのも同然なのである。相手に私を殺させたなら、私が相手を殺したも同然なのだ。

戦争がイヤだから、自分は殺されてもいい、と言って他の人の生きるという選択を無視して虐殺されるのを放置するのは何だ? 愛する者を守りたい、いとしいつまこを、自分を育んでくれた郷土を守りたい。その気持ちをあざけり笑い、どういう根拠でか、自分だけは安全でいられると勘違いして「反戦」を訴えイイカッコして、防衛の邪魔をするのは、何だ? 70年以上前に、世界から人種差別と侵略植民地支配を撤廃するべく立ち上がった日本人を悪だとののしり、日本さえ悪いことをしなければ世界は平和などと愚劣極まり内ことをほざくのはなんだ?


なんだ?


なんだ?




なんだ?











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※1 1900年の初頭まで、世界とは白人国家のことであり、戦後の“国際”とはアメリカのことであったのをマネているのだろう


※2 実際には、やられている振りをして、尖閣を大きく開けて手を出して来るのを待って、国際社会に中国による侵略のお墨付きを頂いたところで料理する算段なのかもしれない。尖閣周辺では漁をすることができなくなっているし、島に行くことは勧められない。海保による威嚇射撃もなくなった。まるで、入ってきてくださいと言わんばかりではないか。

最近では、南鳥島のコバルト埋蔵量を発表し、さらに太平洋奥深くに誘い込もうとしているようにもみえる。大量のレアメタルは、尖閣周辺の海底油田より魅力があるからだ。尖閣周辺を米空母が往来し、島に自衛隊の防衛設備を置くと発表した直後の南鳥島である。

もちろん、その手に乗ってこなければ、それに越したことはない。

核心的利益はなんとしてでも取るという決意のもと、力による現状変更を目論んでいる中国が、日米の策略を見抜いてやめてくれれば幸いである。中国にしても、なにがなんでも盗ると決めた領域がとれなくなるような手には、おいそれとは出ないだろうが。

わたしには、これらの防衛戦略は、政治的・軍事的な平和創造のひとつであると思われる。

少なくとも支那政権は、「自分たちが尖閣に侵攻しているのは、日本が防御せずに放置しているからだ」と言っていた。故意に間口を開けているのではないかという疑いが彼らにはあったのだ。しかしいつまでも上陸しない上に、日本国内の世論が変化してきた。そこで、次のフェーズに進んだ、と観ている。