アントンはひとの話しを聴かなかった。聞こえないから聴いても無駄だ、と初めから諦めているふうだった。誰と話していても、自分の造り上げた世界に向かって答えていた。アントンは見たり聞いたりしたことに勝手な解釈をほどこし、怒ったり逃げたり唾や恨みごとを吐いたりした。なにを聞いても、予め自分の理解できる三つばかりの考えの塊のどれかだと判断し、決めつけ、それについての文句を言い始める。

ひとの何かやっている様を見て、鼻で嘲り笑ったりした。怒った相手にわらっている訳を詰問されると、不意を喰らったように驚く。モゴモゴと口ごもり、目を白黒させた。

自分はなんでもすぐに解る頭の良い人間だ、と思い込んでいた。何をやらせてもうまくやる腕のよい工員だと自負していた。それだけならなんの災禍も起きてこないのだろうが、本人のいないところで、その道三十年の熟練工のような素振りでひとの仕事ぶりにあれこれケチをつけたり、頭の悪さを馬鹿にした。

しょっちゅうそれを言うので、いつしか相手の耳にも入る。自分が聞こえないからといって他人のことはなんでも口に出して言っても大丈夫とでも思っているのか。かと思えば、ここでこそ、それを言わずして何を言うのか、という場面ではおずおず口ごもるのだった。カーっとなって、心臓が激しく鼓動し、喉が詰まり、目の前が真っ暗になり、頭がまっしろになって、どすぐろい顔で呆然と立ち尽くす。せいぜい吃音が出るのが関の山だった。そうして後からあれこれ言い訳の時間が始まる。ーー相手を責めさいなむか自虐におちいるだけなのだが。なぜそうなるのか、まったく自覚がないようだった。


なにか作業をするとなると、アントンはまだチーフが指示をしている最中にそわそわし始め、チョロチョロっと動き始める。とめる間もなくやり始め、知らない間に完了してひとり悦にいった。

「どうせおらっちは、おらっちは。ーー生まれてこなけりゃよかったんだ」

左の頬を手で押さえ、袖で涙を拭きながら言うことになる。そこまでさかのぼって悲嘆することかと思わないでもなかった。考えが異様に極端で、しかも卑屈だった。その結論に至るために、わざわざ自分勝手な早合点をしているとさえ思えた。

「あのさ」

なにか助言しようとして口を開く者もあった。「お前はひとの言うことを聞かない。もっとよくーー」

「そんなこと言うと嫌われるぞ!」

アントンはにがい表情をしたかと思うと、照らついた鉛色の顔をして突っぱねる。相手は口をつぐむ。


作業している最中にも他の者が、そうじゃないぞ、とつぶやく。アントンはますます“間違い”を急いでやり始める。とうとうチーフが現れて、明確に指示する。ところがアントンはポーッとしたように突っ立ったかと思うと、なにも聞かなかったようにそれまでと同じことを続ける。

言葉で言ってもわからないから、殴りつける。

「なにすんだよ!」

いじけ、嗚咽しながら泣きじゃくる。


きっと炭坑にいた時も、

「ああ、これを運ぶんだろ。わかってらい」

と鼻の下をこすり、親方の指図を無視して勝手なことをやったのにちがいない。でんぐり返って頬を押さえる。

「どうして殴るんだ! ちゃんと仕事をしてるじゃないか」

弱々しく訴えたが親方はむっつりした眼で睨む。


指示通りではないがそれでもいい、あるいはその方がいい、といった類いの独善先行ではなく、明らかに段取りを妨げるだけの邪魔、余計な仕事を新たに作り出す迷惑行為であった。たしかに相手のためを思って献身的に動いてはいるという素振りは端々から滲み出ている。しかし、ありがた迷惑以外のなにものでもない。

アントンはしまいに、善意でやっているのにケチをつけられたとして恨み逆上するようになった。憤慨し、弱い者に八つ当たりすることもあった。新入りのあいさつしたのを捕まえて「なんだとぉ」とすごみ、めっためったに殴ったり蹴ったりしたこともあった。