クミタラメヨ
スミタラメヨ
七月二十一日のことでした。布団に入っていたら、眠っているとも起きているともつかない時に、ふっと声が聴こえたのです。インド人がしゃべっていると思いました。なんとなく細身で黒い体が見えました。ハッと思ったら、目が覚めたので、寝入りったぱなのまどろみのそのまた初めの段階だったと分かりました。
冒頭の言葉が聴こえたのでメモを取りました。
クミタラメヨ
スミタラメヨ
即座に感じた意味は、組みなさい 住みなさい ということでした。天皇のことをスメラミコトと言ったりしますが、スメラは本で読んだ通りに、統べる 即ち統治するの変化であろうとだけ信じ込んでいました。しかし、スメはスベの方への変化だけでなく、スム=住むの方へも、いやスムからスベに変化したのかもしれないと思いました。
その日はそのまま眠り、あとでもっと考察してみました。
クミタラメヨは組みたらめよ で、人々と協力しなさい、手に手を取ってそれぞれの得意なことを出し合い生かし合うようにしなさいということだろうな、と思えました。それも最大に惜しみなく相乗効果的にです。家のひとと話していると、汲む でもあると言います。相手のことをよく理解する、ちょっとしたニュアンスから本意を察知する そんな意味でもあるのではないか。なるほど、それも一理あるだろうと思いました。ともかく、自分を最大に伸ばし発揮するには、他人と組んで協力してやるんだな、と分かりました。
スミタラメヨについて、家の人は、澄む の意味ではないか、と言います。なるほど、それもあるだろうと思いました。が、とりあえず自分が最初に直観したことをベースに考察することにします。スミタラメヨが住みたらめよ であるとするなら、充分に存分に満足する、足りた生活をなさい、ということではないか。しかも他者からそうされるのでなく、主体的に自分が、です。だから、タラシメヨではないのです。飽くなきまでに、住んで住んで住みまくりなさい。土も家も空気も森も、渾然一体に溶け込むほどにまみれて生きなさい。語感からそんな意味を感じます。
統治する。統べる、治める。
これがどうも戦後特に、金と権力と暴力による無理矢理な行動規制、といった意味で理解されているように思います。支那やヨーロッパではそんな意味しかないのでしょうが、日本のOSAMERUは、怒りをおさめる、刀をおさめる、痛みをおさめる、などといった場合に使われ、鎮める静める平静を取り戻させる落ち着かせる といった意味です。ですので、ひとびとの争いや対立の裏にあるよこしまな気を抜き、平静を取り戻させるということなのでしょう。
その方法は、德(=悳=素直な心)や義をもって調和をはかるというものであったはずです。それは日本人が永々と続けてきたことであり、いま、現在、わたしたちがどのようにしてその場をおさめているかを観察すればおのずと想像ができます。気に入らなかったり、考えがちがう相手は、全滅させればよい、それが支配することだ、としか発想できない民族もあるのです。
縄文のむらおさが何をもって調和の取れた集落をつくっていたか。
西暦0年の和乱と呼ばれる、おそらくは支那大陸や半島から侵入してきた外来種による、略奪主義や奴隷搾取支配を大和朝廷が何をもって成敗して日本全土をまとめたか。
戦国や武家政権にあっても、つぶさに調べていくと、決して権力と暴力で押さえつけるというやり方はしていません。表面上そう見えても、思いにあるのは常に心をつかむ、ということです。それも非常に気高い精神によって貫かれていなければ民衆は納得していません。
日本での裁判は、大岡裁きが理想とされています。『三方一両損』などは有名です。やった人もやられた人も周りの者も納得する方法でおさめるれば拍手喝采なのです。法律に従って杓子定規に刑罰を与えるなど、最悪の方法だとわたしは思います。
明治以降、天皇がおさめることに身を乗り出したのは2回です。天皇の名の下に行なわれたクーデター226事件の鎮圧。それからポツダム宣言受託の時です。
大東亜戦争は、単なる日米決戦などという小さいものではなかったのです。世界から人種差別、侵略植民地支配を終わらせ、平和な世界を創ろうとした。それを成し遂げようとした日本国民総てを捧げた大事業だったのだとわたしは思います。そのこころざしと血気盛んな闘魂をおさめる。おさめ得たのは、スメラミコトだったのです。
すべて、そこに通底しているのは、心の平安だと思います。
日本人的なやり方をしている人たちは、タイにいる少数民族やネイティブ・アメリカンなど、伝統的な生活を続けてきた人々のことを思い浮かべればすぐにわかることでしょう。
つまり、なんだかんだで、スメルつまり統べる、よく治められた状態というのは、互いに互いを深く理解し合い、充足した生活をしているということではないかと思えました。スメル前に、住んでいなければなりません。思う存分、住んでいるからこそ、スメられることもあるのです。スメラはそれを大所高所から観てうまくもっていくということ。それをミコト(3つの事 考え・言葉・行動 が一致した状態)で実現することですので、スメラミコトはそれを実現する人存在ということになるのではないか。最も大きい範囲で人々が存分に生を送ることができるよう祈り、見守り、差配するということなのでしょう。
しかし個々のわれわれは、スミタラメればいいのかもしれません。人にまみれ、自然にまみれ、溶け合い、掛け合い、笑い、泣き、怒り、泳ぎ、でんぐりがえり、すじりもじってのたうちまわる。他者とぶつかり、収集がつかなくなった時には、スメラミコトが手をさしのべる、なんとかする。どうも、日本人とはそんなふうに生きてきたのだと感じます。
それが妙にしかつめらしくちんまりおとなしくなった。もっと、もっとクミタラメヨ。もっと、もっとスミタラメヨ。もっと、人や神々と一体になって遊べ。踊れ。謳え。笑え。世界中のひとを相手に。
なんだか、そんなふうに言われたような気がします。
