出生のいきさつについて考えがよぎった。どこかで母親なる者と出会っていたことがあったか。父親なる者とすれちがっていたことがあったか。

振り返ってみれば、この年齢になるまで、自分のルーツを知りたいと思ったこともなかった。どんな親か、どんな暮らしをしていたか、羨望したことはおろか想像したことすらなかった。問いの発し方を知らなかった以前に、考える時間がなかった。というより、その必然性をおぼえなかったのだった。

ただ、ときどきふとした瞬間に、耳鳴りと共にぼんやりと浮かぶ女性の顔があった。それは頭の斜めうしろの方に映っているかんじであったが、実像がうまくつかめない。

夢に現れる幾人かの女性のひとりに、きっとこのひとは、とおぼしき若い女性がある。その顔はちょうどラファエロの描く聖母に似ていた。眉間の広さと小ぶりな桜くちびるが印象的だ。がきっとどこかの聖堂に飾ってあった模写か、似た物を見た記憶が夢で見る女性と交錯した、とも思っていた。ともかく、脳裡にある女の人は夢で見る聖母と重なってしかたない。しかし、そこはかとなく滲み出ている母性が、自覚のないまま求めている思慕と符合しただけのことだろう。と、わたしは冷たく自分を突き放していた。

母に関しては、そこまでだ。幻影を追いかけて郷愁にかられることもなかった。父に関しては、なにもなかった。悲しみ、憎しみ、恨み、責めさいなみ、復讐。社会批判。体制転覆。余計な入れ知恵をする者もなかったし、わたしの想いはそんなところに派生していかなかった。


「おらっちは高名で由緒ある家の血を継いでいるんだけっど、私生児であったがために捨てられちまったんだ」


同じような境遇にあった少年がこんなことを言ったことがある。鼻の下を人差し指でバイオリンみたいに弾きながら。まだフィレンチェにいて、どこかのテント小屋に出入りしていた時分のことだった。この少年は、貴族言葉と田舎言葉を混ぜて使う癖があった。

「この耳の形を見てくれやい。そっくりであろう、メジチ家の頭首の耳に」

おそらくは貴族の出てくる劇中の台詞から取ってきたのだろう。他愛なくニッコリ笑って隠れた耳を見ると、少年は巻きつけるように髪を耳の後ろにかきあげてくれた。誰もメディチ家の頭首の耳を見たことがなかった。

片目をつむったかと思うと、少年は胸ポケットからフローリン金貨をひとつ取り出し、てのひらに開いてみせた。

「これだよ」

「そうだね」

と応えたが、聞こえたかどうか定かでなかった。

たしか、アントンと呼ばれていた。アントンは片耳がつんぼだった。

石炭を掘っていたこともあったそうだ。そこで親方に殴られて鼓膜が破れたのだとアントンは言った。殴られたことは確かだと思われたが、耳の遠くなった本当のところは、中耳炎かなにか耳の病気をこじらせたのにちがいない。聞こえないのが、右の耳だったから。

ちいさなコインの裏面には人の姿が彫ってあった。それがメディチ家の頭首かどうか知らなかった。第一、そのレリーフに耳が描かれているかさえ分からないくらい小さくておおざっぱな彫刻だった。

アントンは大事そうに金貨を懐にしまった。そうして、後ろにあった柵の横木に尻から飛び乗った。数回足をばたつかせ、遠くを見た。そしてまた鼻の下をこすった。

「本物だぞ」

「うん」

柵にもたれかかったわたしは、アントン少年と同じ方向の遠くを見ながら調子を合わせた。牧場が広がっていて、左手には牛がかたまって草をはんでいた。草いきれと糞尿の混じった独特のにおいがしている。

「本物なんだから」

「本物だよ」

「本物なんだから、本当だよ」

「もちろんそうさ」

アントンは、なっとくしたように首をふった。

金貨が本物であることと彼がメディチ家の血を引いていることにはなんの関係もなかった。だが、その〝噓〟が彼を生きながらえさせている支えであったのだろうと思った。それほどに、かじかみ、空かし、みじめであった。

自分の境遇をつくっている支配者に対する憤怒・怨嗟・憎悪・非難・敵意・苦悶・鬱憤・悲嘆・厭世・嫉妬がとぐろを巻き、その復讐の空想がこじれるた挙げ句の果てに、ファンタジックな想いへの逃避ーー。

「今夜はお客さん、たくさん来るかな」

つぶやくように言ってみた。アントンは目を細め顎をあげ、ふんふんとわかったかわからぬかわからない、納得したような困ったような、それでいて勝ち誇った顔をした。

「世の中、そんなもんだろ。さって、そろそろ行くか」

言って横木から飛びおりた。