ジョルジュが帰ったあと、ベッドに仰向けになった。手枕をしてぼんやりと天井を見つめた。ここしばらくのことを振り返ってみた。喉がじんじん痛んだ。整理しなくてはならない。あまりに混乱していて収まりのつけようがなかった。


いったいなんの仕打ちなのか。恋仲だったわたしとイザベルが逢うことがいったい罪悪で罪深きことなのか。むしろそれを引き裂き我欲と独占欲で取り上げようするのは罪ではないのか。そして報復として告げ口し、おまけに棍棒でなぐって憂さを晴らす。これは神の劫罰なのか。わたしが心を歌い、ひとびとを笑わせるのは、いったい何罪にあたるのか。すべて、人間の、自然な振る舞いではないか。地を這うようなどす黒い恨みが沸き上がっては流れていった。ああ! わたしもジョルジュや反カトリックの者たちと同じ感情にさいなまれている。喉が烈しく痛みはじめた。

いや、仕打ちだとか、カルマの清算などという暗い考え方はよそう。


・・・所有が諸悪の根源なのか?


わたしはイザベルを奪ったのか? いや、奪ったと言えばむしろダニエルがわたしから奪ったのだ。わたしとイザベルは互いに想いがあった。相手を想う。想い合う。それだけだ。わたしが彼女を想い、彼女がわたしを想った。あったのは、それだけだ。そこに〝所有〟を持ち込んだのはダニエルだ。とたんに、わたしが彼女を奪ったことになった。想っているだけで。彼が所有を発明したがためにわたしは犯罪者となった。物を盗るのとはわけがちがう。ーーいや、人と物とがまったくちがうとは言わない。だが、知覚ある存在同士が意をもった。互いに。


いったい何が原因で、世界はいつもこうなのか? 所有が悪なのか。


社会を機能不全に陥らせていることの原因はなんだ? 深く探れば探るほどますます混乱し頭をかきむしった。この、髪の毛をかきむしるという行為を今のわたしは取らない。これはこの時代のわたしの癖であり、ある種のパニック状態になり、そんな自分に酔った時にやるものであるが、どこかの劇団にいた時分に人のやっているのを見ておぼえたものらしい。こうしたからといって特に素晴らしいアイデアがわくわけもなく、深刻に見せかけるための自分へのポーズにすぎない。誰も見ていない時にこそよくやった。

だが不思議なことに、復讐しようとは思いつかない。やられたらやり返す。短絡的にそう思うことができない。臆病だからか? 卑怯なことが嫌いだからか? 明らかに人為的に行なわれたことにかかわらず、〝なんの因果か〟などとやり始める習性は今も変わらない。こちらが何もせずとも彼にはふさわしい結果が訪れるとしか思わないのだった。

実にこの時代のわたしは、気高い霊性に到達していることを敬えばそれで充分だ、という認識に達することができていなかった。それ故に死することがあっても覚悟の上だと諦観しているわけでもなかった。言い替えれば、もし悟りというものがあるとすれば、それは物理的な結果を選り好みするものでなく、それをどう受け取るか、さらなる覚醒を宣誓するものとできるか、ということを知らなかったのだった。


どういうわけだか、ふと、中絶に来る女性たちのことが思い浮かべられた。事情はさまざまあるのだろう。カトリック教会が中絶を禁止していたために捨て子、みなしごも多く、また孤児院も多かった。