だからこそ、新しく天下をとった者が前の為政者の9族皆殺しなどしない。それはそれで残っていく。
しかし、ひとたび兵を挙げ、戦ったからには、不名誉極まりないだろう。切腹による自害とはそういうことなのだ。負けたのに、つまり、知力、武力、行動力で及ばなかったのにおめおめと生き延びるのをよしとしなかったのである。死んで生まれ変わって出直す。
だから、仕返しなどということは日本社会では潔しとされない。リベンジするなら、報復ではなく、相手より、高みに至るという意味以外ではない。日本人の怨念は、そのへんの安っぽい恨みよりも、根が深い。なにくそ、臥薪嘗胆。相手を超えてやる。じっと耐えて堪えて、力をつけて凌駕する。陵辱ではないのだ。凌駕である。
他の者を追い抜いてその上に高みに立つのである。
決して足を引っ張って引きずりおろすのではない。自分が高みに登るのだ。
陰口、悪口を触れ回り、相手を孤立させ、意気萎えたところで、恨みを叩き付け、虐殺し、蹂躙し、陵辱するのではない。
己が学び、努力し、鍛錬し、工夫し、より強く、より高くなっていく情動である。
もしそれができないのなら、大人しくしているか、切腹自害である。
能力のある者を認め、努力して這い上がった者を賞賛する風土は、互いを高貴な者として扱っているからに他ならない。
共に伸びていくためのライバルと言いながら、足をかけて怪我をさせるなど、最も卑しい行為とされる。
日本人の精神には、相手を伸ばすために、自分の知識や技術を惜しげもなく差し出すというものがある。
相手が敵であろうが、年下であろうが、年上であろうが、相手を高みにいざなうのだ。
なぜか?
己が高みに至るからである。
まず、教えることで高くなり、さらに相手が伸びることで、もっと伸びなければならないというテーマを自分に与えるのだ。
こうした精神や風土は、天皇スメラミコトを建てた国づくりによってもまた明確になされた、と私は思う。
まさにキリスト教の理想とする、あるいはアラーを唯一しんとするイスラム教の理想とする、神の本の統一を具現化している国家は、日本ではないか。
武力。ムーの力。真理を恐れもなく語ること。それをおおいに認める心の広さ。
これが平和な共同体、大和なのであろう。
決して、軍事力・破壊力で他を滅ぼし、弱体、無力化させ、簒奪、搾取を行なうのではない。
その精神は第二次大戦時にも発揮されていたのだが、日本人こそがそれを見誤っている。いま、戦時下で日本がやったとされる残虐行為は、その行為を口汚く罵り、憎悪している当の朝鮮出身の日本兵がほとんどなのである。
ただ、なぜかの国はあれほどまでに日本を悪く言うのか。それは日本人が理解し難い理由があるのだ。
アメリカや中共の意向もあるが、それについてはまた別の機会に語るとして、残虐さについてのイメージが異なるのではないか、とわたしは観ている。
日本人は、残虐さを好まない。
ところが、イギリス、支那などは好む。朝鮮もそうだ。拷問の陰惨さを調べてもそのことが理解されよう。
なぜか? 特に支那、朝鮮においては残虐さは強さであると見なされているのである。
日本軍がこんなに残虐なことをやった(ほとんどが支那による作り話か、朝鮮出身の日本兵によるものであっても)と言えば、それは日本兵は強いということなのだ。
たぶん、理解できないと思う。
強さを示すのに、その戦略や兵器開発ではなく、残虐性に焦点を当てるのだ。
なぜか?
自分たちはこんなに弱い、と思いたいからである。解るだろうか?
弱者であること、被害者であること、なすがままであるしかないという諦め。そういう自分たちの在り方を変えるつもりがないのである。いつも、いつまでも助けてください、助けてくだいさい、と乞うているのだ。
そんな国が日本のすぐ横にある不思議。
もうまさに、私には天の配剤としか思えない。スメラミコトのいる国民全員が気高い王であり神である日本と他人に追いすがり乞い願うしかない物貰いの国。あの姿を観て、学ばない日本人がいったいあるだろうか? 自分たちの民族性や本性を思い出さない者があるのか。国家にノーベル平和賞を与えるとするならば、それは憲法9条のある日本ではない。国をあげて、他者に人間の神性に気づかせているあの国なのである。
御門を建て、その三言によって誰もが神の本の統一を思い出し続けている国日本。
軍事・破壊力、邪知謀略をもって他国や他民族を服従させ、諸王の上に君臨する皇帝の帝国主義侵略国家。
それから、侵略されることに慣れ、人類史上稀に見る骨抜きの属国根性を持ち、自分たちではなにもできないと国を挙げて信じ込んでいる隣国。
このみっつの在り方は、各々の中にも包括され、また個人の中にも内包されている。
(余談になるが、アメリカの合衆国制は日本に近いと言えば近い。ピューリタンの作った国であるので、もともとが侵略国家ではあるが、聖書の本の共和という思想によって成っている。天皇の替わりにイエスがいるのである)
御門にはサニワがいた。架空の人物ということになっている竹内宿禰である。かれはまた武内とも書く。建内とも。
なぜそんな名前で呼ばれているのか、いまのところ不明確である。武や建はなんとなくわかるが、竹だけはわからない。それはこれからの研究に委ねるとして、気づいたこと、思いついたことをそれがどのくらいの高さにあることか、また的を射ているかを審査する役割のひとである。
この役割は個人の中にもある。
自問自答、そして確信、決定ということになるが、たいていは他人に話してその答えを聞いてから自分で選択している。そして結果を観察してうまくいかなければ、また自問自答して選択しなおす。このプロセスを進化と呼んでいる。
国会などもこれを下敷きにしているように思う。
内閣が提案する。ーーこの話しはまた別の機会にします。
ともかく、日本という国の国づくりはスメラミコトを建て、そのミコト(あるいはミカド)を認めることによって、争うことなく異文化が調和していくというおもしろさにある。決して、民族主義や純血主義に走らず、調和、統一しているのだ。
これが国民のすみずみにまで浸透しているから、日本人の異文化に対する寛容さがあるのである。
多文化を文化侵略などとは捉えず、取捨選択したり、変容したりして取り込んでいく。言葉、文化、技術、・・・どれもうまく取り込んで昇華していくのである。遊ぶのが好きなのだ。言葉で遊び、文化で遊び、技術で遊ぶ。
血で血を洗う覇権争いとは縁のない国であるからこそできることなのかもしれない。
そしてひとりひとりが真理の門をもっているからこそ、さまざまなアイディアとアクセスするからこそ、世界が共感する文化や芸術あるいは技術、商品が生まれるのではないか。
その意味でも、わたしたちひとりひとりが御門、真理の扉をもっている者たちなのである。
日本国は、民衆の上に天皇だけが、ぽつんと浮いているのではなく、天皇が集まっている国なのだ。
全員がスメラミコトであり、ミカドなのである。
日本に天皇がいるのは、スメラミコト、ミカドの集まった国ということを表しているからである。まさに、天皇は国民の象徴なのだ。
真理を思い出し、それを認める人々。日本人とはそういうものなのであろうと思う。
