わたしには、わたしだ、わたしには、高い山に登って広大な風景を見渡したいという欲求がある。
あるいは、美しい花を観賞したいという欲求がある。広い花畑で自分を見失ってみたい、瀟洒なカフェーで苦い珈琲を飲みながらその庭に咲くノッポの向日葵を呆然と眺めていたい。そんな想いだ。
そしてわたしには、わたしだ、わたしには、異性に触れ合いたい、混じり合いたいという欲求がある。時折、モーレツなまでの。
これらはすべて、魂の欲求である。
紛れもないわたしの欲望だ。
ハートがそう指し示す。そこにわたしがいますよ、と。
それを国営でやってなにが悪い?
展望台を作るのも、喫茶店を経営するのも、慰安所を設置するも。
女イコール弱者
軍部イコール強制
そんな短絡的な図式を組み合わせて安易な論法でおのれの欲求不満を訴えているだけではないのか? そんなかんぐりさえしたくなる。
なぜ、展望台は認めても、喫茶店を許しても、慰安所だけは特別視する?
おなじ、魂の欲求ではないか。
なぜ、おのれ自身を否定するか。
なぜ、こたつの中で茶をすすりながら、戦地に赴く兵隊さんを評論する!
もし俺が、あの時代の男で、これから死ぬかもしれない戦いに挑むなら、この世の心残りのないように、一発かまして出かけたい、そう思うのが自然ではないか。
それにこたえた女たちをなぜ、いちように被害者だ、性奴隷だと決めつける!
どうしてそんな勝手な憶測でかのじょらを穢す、汚す。
どうして過去の女の所業を男による弾圧だと決めつけ、その体験をしたこともないのに、まるで自分が被害を受けたかのように妄想して、訴えるか!
いまそんなことをしている女は、かつて、過去生で金で女を買っていた男かもしれないのだぞ。
女を奴隷のようにさげすんでいた薄気味悪い男だったかもしれないのだ。
もし、その償いをしたいのなら、前の時代の女性の置かれた立場を被害だと決めつけて、男を責めること以外にいくらでもすることがあるんじゃないか?
景色を観たい、花をめでたい。それと同じように、異性に触れたい交わりたい。それは自然な欲求というものだ。自然な性行動である。
にもかかわらず、慰安所だけを否定する。特に国がやるのを否定する。
それは、異性に対する性への偏見ではないか。
なぜ、それだけを特別視するか!
「戦争そのものがいけなかった」
馬鹿女がすぐそう言う。
返答に困った挙げ句にそう言い始める。
ほんとうに、馬鹿だ。
オツムが弱い上に、心も弱い。
責任を転嫁するな。
いついかなる状況でも、特に極限の状況にこそ、おのれが出るのだ。
その言葉の本意もわからんな。
「戦争は男たちが始めたもので・・・」
ボケか!
ひとのせいにするな、被害者ぶるな。
なぜ、戦争から学ばぬ?
なぜ、すでに起きた事の是非をうんぬんする。
それが本当の自分を表現するのにふさわしくない、もうふさわしくないと見なすなら、やめろ。それだけのことだろうが!
男女共同とか、女性学などやっている中高年のおんな。
戦中の国営慰安所は否定するくせに、どうしたわけだか自由恋愛だけは主張し、「だれとセックスしたってわたしの自由でしょう?」などとおっぱじめるから、笑うに笑えない。
そして参ったのは、こんなことを言う馬鹿女がいたことだ。
「男と女は平等よ。一夫多妻が認められるのなら、多夫一妻だってみとめられるはずよ」
一夫多妻が認められぬうちから、自分だけはヤリまくっている。
これが馬鹿と言わずに、なんなのか?
罪悪感なんか要らんから、自由にやれや、ボケ。
