次に逢った時もイザベルは貞操帯をつけていた。
パリに入ると、わたしはどこか目につくところに布を結んでおく。それは彼女の散歩道であったり買い物に出かける小径であったり、並木や茂みの小枝にそっとゆわえる。あるいはふと見上げる尖塔の物見櫓の柱にくくりつける。どこと決めておかないのは、遊び心からである。何色の布とも決めていない。普段ないところにそれがあるのを見つけたイザベルは小躍りするくらいに喜んだ。
ダニエルが出張に出かけるのを見送ってから、バスティーユ前の広場に姿を見せた。いつもわたしが芸を披露しているのを遠目に眺めている。しかしわたしのパリ滞在中にダニエルが家をあけないことはしばしばあった。したがって、ふたりの逢瀬は平均すれば3、4ヶ月に一度くらいなものであったろう。年に数回、それはまるで隣り合う二艘の船がリズムの異なる波に揺られ、ほんの時折にふなべりがこすれ合うような偶然と偶然が織り重なって作り出す間隙であった。
遠巻きに観ているイザベル。フィナーレが終わって場がひけると、すぐさま一座にことわりをいれ、わたしは郊外の麦畑へと歩いた。百メートルくらい離れて後をつけるイザベル。人目が途切れるところから彼女は歩調をあげ、わたしは落として合流する。手と手がもつれ合い、握りあう。二頭の馬が首を擦り合わせるかのような愛撫、足元にまとわりついてくる子猫のような愛玩。
イザベルの服は麻や羊毛の黒や灰や焦げ茶をした織物を重ね着から、目もあやに、綿や絹を素材とした比較的明るめの長いワンピースに変わった。靴も厚手の木の板に帯を取り付けた下駄が主だったのが、パンプス様で先のとがった革物に履き替えられた。しかしもちろんわたしと逢う時は、くろっぽい色の肩掛けで半身を覆っていた。
麦畑に囲まれた林の入り口で飛びかかるように抱き合う。太ももに手を伸ばしたとき、異物。わたしがけげんな顔をする。だが、イザベルは、にっこり笑って鍵を見せた。
それは子供の小指くらいの大きさの、リング状の持ち手のついた歯三枚のものだった。
夫の留守中に手に入れたのだそうだ。
「こんな物、四六時中つけていられるものですか」
言いながら、イザベルは衣服をたくしあげる。金属と革でできた貞操帯があらわになる。
ダニエルがどこか出かける度に呼ばれて取り付けるのだそうだ。もちろん鍵は彼が持って行く。
「自分は外で何をやっていることやら」
とは言わない。
イザベルは、わたしに鍵を手渡すと差し込み口に入れるよううながした。
「橋にある鍵屋に行って作らせようとしたら、すぐに出してきた」
わたしは腑に落ちない。ともかく鍵を回すと、カチンカチンと軽快な音がして嵌合が外れる。
「合鍵はすでにあったの」
まだわからない。
「屋台の棚の下には、これと同じ物が売ってあるのよ」
イザベルは貞操帯を人差し指に提げながら言う。
あははははは!
やっとすべてが呑み込めたわたしは笑う。貞操帯は鍵屋が売っていた物だったのだ。開けにくるご夫人を見越して初めから合鍵が用意してあるのである。つまり、こういうことだ。鍵屋は初め旦那に貞操帯と鍵を売り、そして次に妻に合鍵を売り、最後に全部を買い取って転売する。転売する時は、夫が死んだか、離婚したか、ーーともかく、ぶっそうな人間的感情が終演した時だ。
「鍵の違うのをもうひと揃い買ったの」
何食わぬ顔でイザベルが言う。この発言の意図するところを読者は理解されるだろうか? 腑に落ちた時愉快に笑えることだろう。ともかく、なぜ、ポンヌフのことを思い出した時に、橋の末端にある鍵屋が強く思い出されたか判明した。あとでそこを通ったとき、すました顔で店内に腰掛けている鍵屋の顔を見てにやにやしたのであった。
下で横になっているイザベルに言う。
「けれど、あれをつけている時が平和なのかもな」
「ひとごとみたいに」
イザベルはすねてみせる。
わたしたちはその日も、暮れるぎりぎりの時刻まで睦み合い、帰り道も人目のできる間際まで手を取り合っていた。
「はい」
帰り際、わたしに鍵を渡す。
「持って帰らないのか?」
言うと、はにかんだような顔を見せた。そしてもうひとつ鍵を取り出した。わけがわかったわたしは大笑いした。
これを付けた当人には外すことができないのである。ダニエルのための貞操帯なのだ。
しかしイザベルの心境を思うとき、悲哀にみちたものがあった。みなしごでしかもフィレンチェ出身のわたしがパリには定住することは困難で、また流れることによってしか生活できないことは十分承知していた。この時代の中流家庭の女子にはほとんど選択肢がなく、あとは誰とも結婚せずに修道院に入ってしまうというくらいだった。けれども、まだ結婚の方がわたしと逢うチャンスは残される。
結婚後もいろいろ思いはあったろうが、イザベルはわたしとの今後についてとか、どんな気持ちで結婚しその生活でなにを考えているかなど、いっさい口に出さなかった。逢瀬の時は、ただわたしの旅の話しを聞いたり、歌や笛や楽器の音色に酔うだけだった。その時間を減らすような話題を持ち出すことはしない。
イザベルの姿の消えたあと、掌の鍵をしげしげと見つめた。17と刻印された柄、そして把っ手の先端のわっかはハート型をしていた。そこはにわかに錆が剥げ、新しく加工し直した跡がある。
わたしは鍵を握りしめた。強く、強く。
