離婚はできない。やり残したことがある。いやむしろ自分の仕事は旦那の改善だ、とばかりに精を出して励む女性というのがある。母などはその典型で、私の幼い頃は、なにかと言えば、父と母は互いに「こんちきしょうが!」「なにを、こんガキ」などどやりあっていた。
「あんたは地獄の1丁目じゃんね」
「お前こそ、地獄の3丁目だ」
喧嘩するほど仲がよいなどという言葉が慰めにしかならないほど、ギーギーギャーギャー賑やかに憎しみあっていた。そしてふたりとも、わたし(子供)がいるから別れられないのだ、とわたしに嘆いていた。
母は、父の人格改造に取り組み、親類縁者に愚痴を垂れ、会う人会う人に相談をもちかけ、なんやら教に出向いて話しを聞き、日々、亭主を善くすることにいそしんでいた。箸のあげおろしから、靴の揃え方、服の脱ぎ方に至るまで、なにかと言えば説教を始め、御託を並べ、もうオリンピックの体操演技でもするかのような、針の穴に糸を通すくらい寸分違わぬ精確さで在らねばならなかった。
しかしいくら愚痴を垂れ流そうが、周囲に相談しようが「変わらん!」と少なくとも本人は断言するはずだ。いつも父は大声でそう叫んでいた。いやむしろ、母がブツブツ言えば言うだけ意固地になっていった。そうなるとますます母は「あそこがいけない、ここがいけない」と悪いとことを指摘し、そこをなくそうと努力していた。もちろん、その余波は私たち子供にも存分に、いや夫にかなわぬぶん、鬱積した怨念じみた大波を十二分にかぶることになった。小学校から帰ると正座させられ、もう微に入り細に入り、辛気くさい顔で、これはいけないあれはいけないとヒステリーを起こしていた。いや、ヒステリーがわかって欲しくてこごとの顔をして発していたのかもしれない。
父も母も、悪いのはぜんぶ世の中のせい、他人のせいであった。そうかと思えば、急に暗く落ち込んでは自分を責めさいなむ。そうしてとどのつまり、悪い物を取り除こうとするのである。父は正義の名の下に、母は浄化の名の下に。
子供のことをガキと言ったりするが、これは子供がなんでもガツガツ食べるところからきているのだろう。餓鬼は仏教で考え出された道のひとつで、畜生道のこうじた境地であるのだそうだ。つまり、要らない物だけをなんでも喰らい尽くすのである。となれば、
「こんちきしょうが!」
「こんがきが!」
と浴びせかけあうふたりは、誠に相手を見抜いていたのである。
文人悪食、と言ったひとがあったが、これは自己卑下的に世間にお調子を合わせているのだろうと思う。つまり、容認容認、肯定肯定の作家たちのことを言っているのだ。戦争も暴力も、否定はしない、反対運動はしない。あると認めて行く。そういう態度を昔の作家たちは意図して取っていた。文学の伝統、精神とはそこにあるのであろう。つまり、それなりに高度な境地に達したひとの在り方であるからだ。
旦那の人格改造をしようとして闇を喰らって行く女房はまさに餓鬼、悪食なのだ。しかしこれは文字通り、悪い物を食べるのである。
であるからだろうか、母はぶくぶく肥え太っていた。
餓鬼道は地獄のひとつである。どうして、悪い物を食べ尽くそうとするのが、地獄なの? という疑問もあろう。そうしていくと、光の世の中になるじゃないか、と。餓鬼こそライトワーカーだよ、なんて。
しかし古来、仏教は見抜いていたのである。悪を懲らしめ善を勧める者こそ、地獄にいると。
そんなことをすればするだけ闇に落ちる。闇を喰らって闇で腹一杯になる。腹の中には暗黒の世界が渦巻いている。腹に一物もったどす黒い感情を吹き出させる人は、闇の深い人だ。こういう人は必ず外の世界を糾そう、治そうとして回る。そしていつしか世間の濁流に呑まれておとなしくなる。しょせん世の中こんなものだと諦めるのである。正義は負けるというみじめな諦観である。これがふつう、大人になると考えられていることだ。
だが、道はある。この道は、実はエスカレーターである。上昇下降の道なのだ。上昇して、闇の渦とは異なる因果の働く階層に移動することが道と呼ばれる境地である。つまり、それが中庸。三角形の底辺の2点を行ったり来たりするのでなく、頂点に在ることだ。
けっして、底辺にいて中間でバランスを取ることではない。それではいつまでも闇と光、善と悪の戦い、より戻しを続けるだけである。(いちおう言っておくがそうしたバランスを取る活動を否定しているのではない。行き過ぎはもっと危険だからである)
私が思うに、幸福なことに人格改造に励みたくなる旦那と結婚した女性は、まずこの点を見極めなくてはならない。その男性が、少しでも進化する意思があるのか。というのは、いわゆるアセンションをしようとしていて夜明けの晩を迎え、一瞬闇が深くなるのと、ただ餓鬼道畜生道をひた走りに走りどっぷりと闇に浸かっているのとではまるで違うからである。
後者の場合、なにをどうしても無駄であると心得よ。それは夫だけなく、世の中すべてにおいてである。そんなことをして回るのは、ライトワーカーどころか、闇を喰らって肥え太る餓鬼の姿を極めていくことに他ならない。いつも闇に飢え、見つけては食おうとするのである。ない闇すらねつ造して食わねば気が済まない。お節介に、やれ憑依霊が、やれカルマがとやるのである。そんなことだから、肌はかさかさで、胸はやせ細り、下腹だけがぶっくり膨れたあの醜い姿をすることになる。善意であるかもしれないが、自分が餓鬼道に落ちていないか、よくよく振り返ることだ。
上昇するとはどういうことか。旦那なり他人を1ミリでも変えようとするのではない。徹底的に、相手を理解し認めていくのである。そして感謝する。その餓鬼畜生道まっしぐらな相手だからこそ、わたしは正道に気づきえたのだ! と。そんな相手が同居していればいるだけ、自分は理解と感謝であるという在り方を貫くのだ。勘違いしてはならない。理解と感謝とは、同化、同調ではない。むしろ、差異化である。
そしてもし、相手の機嫌が悪そうであれば、すっとその場からいなくなる。それがマスターとしての女性であろうと思う。夫を非難しようと構えているのではなく、機嫌の悪いことがあり得なくしてしまうのだ。すなわち、冗談のひとつでも言って笑わせる。笑い、陽気に満ちていて、どうして機嫌を損なう気が闖入してこようか。それが、enlighten-mentである。悟りとは明るくさせること。
あれはいけないこれはいけない、これをしてはならない、こんなことは言ってはならない、と言うのは、闇を深くする行為である。いや、闇そのものである。申し訳ないけれど、わたしであれば、そんな方と一緒に住みたいとは思わない。よほどの自己憐憫でもないかぎり、3日以上一緒にいない。
あれはいかんこれはいかんとばかりに、やれ諍いには感情が原因だ、感情は悪だ、なくせ。やれ対立は個性があるからだ、個性は悪だ、没せよ。と押さえつけ始める。そしてそれでも感情に正直で個性をなくさぬ者に、「おまえは、ひとの言うことを聞かない!」と怒り、消毒しはじめる。人畜無害で、なにも考えない、おそるおそる、おどおど、びくびくしているだけの人間に仕立てあげようと躍起になる。それが、それこそが、諍いと対立のみなもとなのに。
相手の言ったことを、なるほど、それはこういうことですね、と高い意味で取るのである。なにを言っても、まず正確に受け止め、高い意味で返すのだ。解釈からがおのれの責任なのだから。相手がどこにいるのか、どんな波動なのか、どういう意図があるのか、それを精確に感知するのはおのれをよく知っておかなければならない。自分にはそんな邪悪なところはないので分からなかったなどと言うのは、善人ではあっても、おこちゃまにすぎない。決して世間を渡っていけるほどの人格はない。意識が高いとは、感知する能力が高いということだ。知覚力があること、粗い事は粗いと、微細な事は微細と気づける。これが意識が高いということだ。意識ー気づきー知覚。同じ事だ。波動を感知し、自己選択することに他ならないから。
感謝感謝で感謝し尽くしていくことができたなら、相手の存在そのものに感謝しえたなら、少なくともあなた自身は上昇する。分かるだろうか、高いところにいるから、それができるのだ。旦那や世間がどう在るか、それは知らない。変化を期待しないことだ。徹頭徹尾、相手を通して自分を知る。
ところが、これをやり始める人が増え、そして地球上がそんな人で埋め尽くされたらどうなるか? 他者をやっつけよう滅ぼそうとするひとが残るだろうか。むしろ、そんなひとを周囲はこぞって観察、研究にやってくるだろう。まさに、これまでの地球がそうであったように。高度な文明を持つ異星の人類学者たちに調査されていたのである。
自分にそぐわないことを問題視し、非難し、糾弾し、矯正しようとしたり滅ぼしたりする。それが問題だったのではないか。それが3次元特有のことではなかったのか。高次に在るとはそういうことだ。3次元物理世界からどっかに飛んで行くことではない。
だからこそ、わたしが、そしてあなたが、相手に観えた自分をよく観察し、理由を知り、おのれの在り方を模索し、選択し創造していくことが大事なのである。決して決して、非難したり、対立したり、人格改造にいそしんでは成らない。ただただ、観るのだ。観れば観るだけ、そして、なにがどうなっているか、どこになにがあるか知ればしるだけ、透明になっていく。
それが曇りなきまなこというものだ。
おのれの内を実によく観る。たったこれだけのことをやるかやらないかでしかない。それが世界の平和であり、幸福の始まりなのだ。おおきなことではないのだ。ちいさな、ちいさな悟りを繰り返していくこと。これが正道である。
相手が餓鬼道畜生道を突き進む人であればあるだけ、やり甲斐があるというもの。相手が強敵であれば、もっけのさいわいとばかりに楽しむのである。そんな相手と結婚したあなたは、たいへんラッキーなひとなのだ。自分の好運に感謝してその幸福をかみしめることだ。職場に置いても同じ。自分を創っていくために他者はいるのだと徹底的にわきまえることだ。他者をおおいに嫌いまた不快を感じろ。だが、非難はいらない。自己卑下も。そんなことをすればするだけ、眼を塞いでいくだけだ。
そして逆説的に、相手に感謝するところがなくなったとき、一緒にはいられなくなる。
