真実とは正しいことではない。そう見なすこともできるが、そうではない。ではまちがったことかと言えばそれもそうではない。
正直さ、透明性。
それが真実だ。
わたしが何かを嫌うなら、それは真実。わたしにとっての。
わたしが何かを憎むなら、それは真実。わたしにとっての。
わたしが何かを恨むなら、それは真実。わたしにとっての。
それはそれとして正直に吐露する。もちろん対象があればいちいちぶつけるというものではない。単にわたしの価値観や観念が観えたにすぎないから。
言葉なりにして明らかにする。
それを吐いたら、安い人間と思われやしないか、などとは厚顔無恥なわたしは思わない。
平気でさらす。
たとえばFBにときどき差し込んでいる情けない感情、つまらぬこだわり、それがほぼわたしの全てだ。
それを見たひとが、ーーきっとイイヒトなのだろうが、それを取り除こうとしてくれる。わたしにとって、それほどお節介なことはないのである。
わたしは自分で自分を自分の前にさらして見つめ、自分で答えを見つけようとしているのである。
その楽しみを奪ってはいけない。
もちろん他者と協力するのは有効なことだ。
だが、執着やカルマや憑き物や煩悩は悪いものだからと見なしてそれ自体を取り除こうとすると、
叡智が観えないのだ。
分かるだろうか?
執着やカルマや憑き物や煩悩はその裏にある叡智に気づくためにいてくれているのである。
それを悪者と見なす神経がーー。
自分で気づいた叡智こそがわがものだ。
それを誰かが紙に書いたりブログに書いた物を憶えても生きた叡智とは言わない。
キツネが油揚げをかっさらうようなものだ。
他人の成果をパクったって、本物の生き方なぞできやしない。
それを参考にしてあくまで自分で気づくのである。
それが楽しみ。喜び。
その点、あちらもわきまえていて、声で、「それはこれこれこういうことです」などと直接教えたりはしない。聞こえん、目に見えんヒントを出してくる。それにすら自分で気づかなければならない。
自分で気づいたと思ってもらわねばならないのだ。そしてそれが、『あなたはわたしである』と認めていくことに他ならない。
叡智もわたしなんだ、と。
執着やカルマや憑き物や煩悩はいけないと、ネガティブなことはいけないと、それ自体をやっつけようとする。それはあっちゃいけないと。口に出してもいけないと戒める。しかし、嘆くのと、嘆いている自分を観察してそれを描写するのはまるで異なる波動なのだ。
おおいに嫌え、
おおいに憎め、
おおいに笑え、
おおいに泣け、
そしてそれを観察しろ。
初めから、あれはああいうものだと決めつけて自動的に不愉快になるな。
生々しく不愉快になれ。
そしてそれを見つめよ。
そのままでいたければ、それを再生産したければ、そのままにしておけ。
ことなる(事成る)結果を得たければアップさせよ。
それだけのことだ。
決して安易に悪いもんだと決めつけたものを取り除こうとすんな。
まずは、正直に吐露して見つめるのだ。
それが日々の実践というものだ。
他人の成果をパクってわかった気になんな。
自分はきれいで美しくて正しいだけだと勘違いすんな。
けれどこう聴いたからと言って、汚くておぞましくて正義ぶった自分をやっつけなくそうとすんな。
ただ、認めればいい。
自分の心はどうなっているか、よくよく見つめよ。
自分には、それがあると認めれば終わりだ。あるから、取り除くまですることはない。
家の中はここが廊下で、ここに台所があって、ここに残飯置き場がある。ここに鉛筆を立ててあり、電話はここにある、とただ知ればいい。
心も同じだ。
どこになにがどんなふうに在る。
存分にそれを知ることだ。
そしたら、自分の心の中を自由自在に動き回ることができるだろう!
それが観自在ということだ。
自由自在ということだ。
おのれの心を透視せよ。
正直に認めよ。
他者に現れたことを手がかりに観えにくいおのれの心の在り様を見つめるのだ。
それをなくそうとする者は、他人からそれをなくせば、自分もよりキレイになると勘違いした者だ。他人の成果を憶え込んでふんぞり返り、傲慢の頂点から他人を善くしようとしてくる善人である。自分には非の打ちどころのないカンペキな人物だと思い上がった者だ。気分次第では、すぐに向うの極に走ってポストの赤いのも自分のせいだと嘆き落ち込む者である。
他人はあくまで鏡であり、それをどうこうしても詮無いことなのだ。
世界を救うために他人を善くしていくなど、この世で最低の生き甲斐と心得よ。そんなものは日々の実践とは言わない。退屈極まりない暇つぶしなのである。(だがもちろん、いま目の前で溺れている者、転けた者、苦しみのふちでもがいているものを見て見ぬ振りをせよと勧めているのではない。その者がヘルプを望むなら、適切な方法で手を差し伸べよ)
問題は、あなたがそれを問題だと見なして握っている以上、未来永劫、問題として存続し続ける。
心の透視図を作れ。
身の回り、家の中から初めて隣近所、界隈、国、全世界、と広がっていくように、おのれの心がまるで地図のように、手に取るように分かるまで、描き続けよ。
細かく細かく分かっていく。
そうすれば、目をつぶっても歩き回ることができよう。
つかうこともできれば、置いておくこともできる。
おのれが分かれば、たにんも分かる。
同じものだから。
だが、決して勘違いするな、それはあくまでフォーマットがということだ。自分が思っている通りに他人も思っていると見なすのは、幼稚か最高次。
そうでなければならないというのは、この宇宙を知らぬ。
他者あっての、おのれである。おのれあっての他者である。
同じが善で違いは悪と決めつけるな。
違いによっておのれを知り、
また、同等によっておのれを知るのだ。
どちらでもよいのである。
どちらでも、より自由でより愛にあふれ、より信頼した自分になる有り難い存在なのだ。
なんにしても、どちらでも好いとなった時、未来も過去もすべて決定していると言えるのではないか。
物理的結果いかんに関わらず、霊的結果は最初から決まっているのだから。
