わたしも貨幣を目的とした経済活動にタッチすることがある。これがおのが思想、目的と矛盾するか、反目するかということについて考察、洞察する。


たとえば、わたしはいわゆる医薬品の類いは、特に化学合成品はよほどの緊急の時をのぞいて使わない。


食品添加物も含まれていない物を選ぶ。


質実剛健。小麦、大豆、塩。原材料表記にそれだけ。しかも無農薬、無肥料なら、なおよろし。


さて、そのわたしがどこかの工場はいり、それも最高度の無菌ルームで、化学的合成保存料や防腐剤、調味料の大量に入った、しかも製造時に殺菌消毒の十分に利いた肉を中心とした食品の製造にたずさわるとする。


まあ、ありていに表現すれば、ハム、ソー、ハンバーグであるが。


これがおのが境地や生き方に沿っているか、ということだ。


まず、わたしが化学合成物質の入った物を食わないという主義であるか、といえばそんなことはない。


肉を食わない主義かといえばそんなこともない。


また、化学合成物質の入った食料を食うべきでないと主張して回っているかといえば、そんなことはしない。あまりに自分勝手でわがままだ、と糺弾されればそれまでだが。


まずもってわたしは、ベジタリアンというのが嫌いである。しかも火を使わない調理をしている自分に有頂天になっている者が、大嫌いだ。ヒステリックに食品添加物を目の敵にして訴えて回る正義づら。動物にも人権があると主張して憚らぬ、その阿呆づらに鼻をつまむ。


第一に、現在の社会と食品事情を見渡せば、合成物質を完全にシャットアウトできないし、まるでゼロにはならないし、ときどきは口にするし、せざるを得ないではないか。それを添加物の入った食物を憎々し気に眺め、毛嫌いするその態度のどこに生命にたいする敬意があると言うのか? 肉を見ると吐き気がするとか、加工食品を見るだけでじんましんができるとうそぶく輩のどこか高尚か? おまえらは、ただの、ゴーマニアだ。


いまのわたしにできることは、深く感謝して食し、そしてさらには、腸内環境をバリバリの酵素エリートにしておくことで化学物質であろうが黴菌であろうが放射能であろうが、なんでも分解、昇華できるようにしておくことくらいだ。


アミノ酸など、の入ったハンバーグと入っていないハンバーグ。もしくはアミノ酸など、の入ったソーセージと入っていないソーセージ。


どちらを購入者が喜ぶか。


食べ比べてみると一目瞭然、(食べるのに一目瞭然というのもへんだが)アミノ酸入りを選ぶのは必定。まず、10人が9人、それを選ぶ。次に、値段を見れば、アミノ酸なしを選ぶ理由は消えて失せる。


アミノ酸が入っていないということは、防腐剤も保存料も入っていないということである。人工的な旨味油も足してない。はっきり言えば、不味くて食えたものではない。ましてや一般に流通しているアミノ酸入りに慣れきった舌には苦痛と映るにちがいない。


まあ、だいたい同じ量だとすると、アミノ酸入りが300円なら、なしは1000円。ありは、大衆の支持を受けて、工場で大量生産、一方なしは職人が手作り。人件費のコストに絡む割合は圧倒的にアミノ酸入りが少ない。原料も大量生産、大量一括購入のアミノ酸入りに軍配があがるのは、もう止められようもない。


愛情をもって自然の中で手間ひまかけて育てた動物を十分に時間をかけて肥らせ健康を維持し愛をもって屠殺したアミノ酸なしと、このくそブタ野郎とばかりに足蹴りにして狭い舎でぎゅうぎゅう詰めにした動物、(ちなみにひしめくって犇めくと書くそうです。牛が密集している様でありんしょ)病気の予防にと大量の抗生物質と成長促進に与えた女性ホルモン剤、ストレスは最期の一撃ですべて御和讃のアミノ酸あり。


こんな違いはたいしたちがいではないのである。些細な差異でしかない。


人々の関心はできるかぎり多くの量を安価に、しかも美味しくというところにある。


そして行き着く先は、最高の波動をもつ物を無料で交換し合う、という社会、経済なのである。いま、人々は、その行程を歩んでいる最中なのだ。できるかぎり多くの量を安価に、しかも美味しくという考えは、まさにその未来の姿を予見させる思想ではないか。


そういった購入者に、これが善いからと高くて不味い、しかも量の少ない製品を提供するのは、これは嫌がらせである。


娯楽映画を観にきた者に、えんえんと訳の分からぬお経を強いて聴かせる坊主のようなものである。健康集会に集まった人々が、東大医学部の名誉教授が辛気くさい顔で分析説明する『こうすれば病気になる』なる学説を拝聴させられるのと同じである。


悲しませ、嫌な気にさせるより、少なくとも喜ぶことをする方が、健康にはいい。なにせ、医食同源、食べることは即ち健康なのだから。


古来、人間は薬しか食してこなかった。いま私たちが食べているのは、すべて、薬として開発された物である。味噌、醤油、ぬか漬け、納豆、干し魚、パン、チーズ、ヨーグルト、など。


それを喜んで、笑いと共に体内に取り込むからこそ、薬の効果が存分に発揮されるのである。


たんと鰹のだしのきいたエビ天蕎麦など、もう腹鼓、舌鼓を打つほどに生者必涎の逸品であろう。笊(ザル)であれば、山葵をきかせ、海苔をまぶし、胡麻、ショウガ、ネギなどそえて食べれば、もう幸せ、この世の天国である。1枚目は素手楽しみ、2枚目にはエビ天を絡めて堪能する。しめに、冷やでくいっと吟醸酒でも呷れば、言うことなし。表情もほころび、目を細めて首をふる。無上の喜び。この楽しみが、健康、平和の秘訣である。


ならば、その程度にかかわらず、購入者の喜びという点が、まず初めに考慮される重要なことであろう。


体に悪くないからと気の進まない健康食品をしぶしぶ食して何が楽しい? それこそ不健康の極みではないか。


それゆえに、喜ぶ者がいるからというだけで、自分の食べない物を製造し売るのはまったく矛盾もしなければ、反目しているのでもない。


おまえがそんな理屈をつけて正当化し、人道に反するおこないの上に化学物質を混ぜて金儲けし、そいつらが健康を損なうのは、社会全体の問題だ、世界のどこかにひとりでも不健康な者がいれば、わたしが健康とは言えない、などとのたまうのは、極論、暴論者に他ならない。他人の喜びを取り上げてまで達成しなくてはならない社会って、どんな社会なんだ。そうやって喜びを奪うからこそ、より高い喜びに達しないように足を引っ張っているのは、どこのどいつだ、言ってみろ。世界が健康になるには、おまえひとりが健康になるので十分なんだよ。


わたしは市販品のパッケージド、ハム、ソーセージまたはハンバーグの類いは買わないし、食べない。


とても便利だと思うが、あとからオナラが臭くなってかなわないので、よしにするのである。わたしは、華麗なる無臭のオナラを是としている。肛門括約筋を軽快に振るわせ、格調高い音階を発するのを生き甲斐としている。それには、残念ながら、そぐわないのだ。かぐわしきオナラの発射。それが、わたし人生最大の仕事、一大事業なのである。それが出た時に、わたしの野望は達せされている証なのだ。


手作りするのは意外と簡単で、ヒツジの乾燥腸に香辛料と調味料を混ぜたミンチを詰めて、オーブンで蒸し焼きにするのみである。そうすると、材料費はアミノ酸入りを購入するのとほとんど同じになる。しかもオーダーメイドの味は自然の旨味とあいまって好みの味にブレンドされて絶品と言わざるを得ない。実にうまい。


作る楽しみ。家族とわいわいやりながら、あーでもない、こーでもないと言いながら、時にはジョークのひとつでも飛ばしながら、例えば、「おとうさん、オレンジジュース取って」と娘が言えば「おう、おまえはオレンジのジュース、おれはおれんちのジュースだな」などとしょうもないギャグを飛ばし呆れ笑いを誘いながら作る、ソーセージ。「あれ、かんじんなあれを買い忘れた」と妻が言えば、「よし、窮すれば工夫するだ、あれのかわりにこれを使おう」と言いながら作るハンバーグ。なんとも楽しいことよ。


果ては成るかな、オナラも臭くならないし、うんこも、まるで芸術品のような出来映えなのである。スカトロマニアに売ってやろうかというくらいなのだ。(冗談ですが)


というのも、わたしの思想、目的はまさに、素晴らしいうんこを作り土に返すということにほかならないのである。それには、健康で在るのが全てだと言い替えても好いくらいのだ。


健康のかなめは腸にあり。


それで、このクソ袋どもよ、腸内環境を整えよ、なのである。次回はわたしの実践をご報告させて頂こう。


よく聴けよ、このクソ袋ども!