どうやらこの、読者にとって退屈きわまりない、それでいて奇怪な物語にもようやく目鼻がついてきた。もうすこしで終わる。この後は急展開、イザベルに起きた大きな変化を記すために、いくつかの象徴的場面を追うことで、わたしは六カ年という歳月を急ぎ足でかけることにする。それと共に、前回の掲載から約ひとつき程の放置の間に起きた出来事を記しておかなければならない。
パリを訪れる度にわたしは近隣諸国の動きについてジョルジュに伝えた。
「カッペルあたりが熱い」
「スイスか?」
「ツヴィングリはもちあげられている」
「スペインはどうだ?」
「いまのところ大きな動きはない。トリエントの公会議は、プロテスタントへの反発と反省のように見えるが、実は、プロテスタントを取り込む形でカトリックの勢力拡大ではないか」
情勢は逼迫していた。あちこちで噴出する不満。暴動。そして戦乱。どれもこれも表向きの事件にかこつけて裏で仕掛けられたことであった。新教徒を利用して、カトリックが戦争に大義名分を与えるのである。
そんなさなか、どこで手に入れたのか、ジョルジュが見慣れぬ物を持ってきた。バスティーユ近くのカフェである。
「おい、ジョバンニ、これが天体望遠鏡、というものだ」
それは、黒っぽい筒でできていた。「レンズという、板とは屈折率のちがうガラスをはめ込んでる」
いまは、一五三〇年代の初頭。公式には天体望遠鏡などないことになっている。ところが、あったのだ。
「ここを覘いて見ろ」
「あの教会の、釣り鐘の模様が見えるな。天使が舞っている」
「そうだろ、四倍だ」
「なんのためにあるんだ?」
「星を見るためさ」
大航海時代。まさか肉眼だけで大海原を航行していたとは思い難い。彦市話にさえ、天狗から《遠めがね》をだまし取るという逸話がでてくるではないか。だが、ジョルジュがもってきたのは紛れもなく、天体、望遠鏡だった。現在の科学ーー反宗教に偏執したような研究者による科学よりも遥かに科学的な、錬金術師によるオカルト、は密かに盛んであり、ガリレオだのケプラーだの、ニュートンだの、あんな正式なものが記載される前にもあったのである。屈折式とか反射式でなかっただけで。ガラスやレンズはずっと前からあり、眼鏡もあった。遠くの物を焦点を変えて観る原理はすでに解っていた。用途がなかっただけで、前例を踏まえて段階的に進歩するという文脈から離れた未来科学は常にあったのである。それはアトランティスから逃れた人々やフリーメーソンリーらによって密かに伝えられ囲い込まれて研究されていた。ブラック系ホワイト系、両面のさまざまな勢力の対話なき合意のもと、表に出る出ないが決定していたのである。たとえば、天文学の進歩と、それを象徴する発見と人物がそろえば、いかにも了解し易い。そのタイミングが、一五〇〇年代の半ば以降なのである。
「橋の荒物屋で見つけた。安く買いたたいたぞ」
ガラクタに混じって埃っぽい木桶に入っていたそうだ。「こんな物買うの、おれくらいしかいないだろう」
言い終わらない内に豪快な笑いを立てる。
それからまた酒場で待ち合わせていると、ニカニカしながら現れたジョルジュは小脇に『ガルガンチュワ物語』を携えてきた。「おい、みろ、ジョバンニ。ついに出たぞ」
「なんだ?」
「アルコフリバス・ナジエだよ」
「ぜんぶ干上がる? なんだそりゃ、砂漠のことか?」
「ペンネームだ。どうやら作者は酒飲みがお嫌いならしい。やたらと吞助に塩をやって喉をカラカラにするって話しがでてくるしな。ともかく、通称『パンタグリュエル』の続編だ、これは愉快だぞ」
笑った。「巨人が出てくるんだ、ガルガンチュワ(大喰らい)という名の」
「巨人? ああ、ムー大陸の生き残りか。地下にもぐったとか言う」
「なんだ、そりゃ」
こんどは、ジョルジュの方が問いかける番だ。
「ムー大陸で力仕事を担っていた大男のことだけど」
「ああ、そうか。なら、きっとその生き残りだな。ガルガンチュワの息子がパンタグリュエルなんだ、まだざっとしか目を通してないが」
「それはおかしいな。大男には男しかいなかったと聞いていたが」
「誰に? ああ、レオナルドか」
「そう。それで、人間の娘をさらうという伝説ができたんだけど、実際にはそういうことはなかったんじゃないかな。あれは人間の恐れが創り出した噂だよ、きっと」
「人間じゃなくて、ええっとバドベックとかいう無可有郷の娘だったかな」
「それは大女だったのか?」
「さあな」
ふたりで大笑いした。
勧められるままにこの物語を読んだ。と、言ってもこの時代のわたしはフランス語が読めない。話しはできたが、読み書きはからっきしだった。それで、ジョルジュがいくつかみつくろって朗読したところを頼りに全体を推測するか、ジョルジュの感想を信じるしかなかった。
けれど今生のわたしは、第一級の学者であり天才翻訳家である渡辺一夫の助けを借りて、このおかしな物語を読むことができる。
まず、作者のペンネームはきっとイエスの言い残したことにひっかけてあるんだろうと思った。
《わたしは乾く》
ここでも出てくるこの言葉。今生のわたしには、この言葉がひっかかって仕方がない。イエスが言い残したとされる言葉の中で、ほとんどこれだけがまるで意味が解らないのである。 かってわたしは『女性がひとりでするルーズなLOVE』という小説を書き、その点についてこんな説を唱えたことがある。
(前略)
「ライオンに食われ損なって以来ね」と龍彦は言った。「僕にはこのあたりにへんな感覚があるんだ」
そう言って自分の胸のあたりをぐるぐる回すようにして指した。逆光になっている彼は、手の生えた巨大なしゃもじだった。
「どんな?」
「ウン。乾きというか飢えというか」
わたしは小首をかしげた。
「わかんないかなあ、わかんないだろうなあ、あでもほら、とてもおなかが空いたとき、痛くなるだろ、横腹が、あれ。あの感覚が胸のこのへんにあるんだ」
「うーん、それは満たされていないってこと?」
「いや。そんなことはない。とても充実している。不足を嘆くなんてどんなに傲慢なことかと思うようになったよ。にもかからわず、胸がひもじいかんじなんだ。痛いくらいに」
わたしはなんとなくわかる気がした。龍彦と抱きあったとき、まるでストーブの熱がじーんとしみわたってくるように彼のハートの心地よい振動が伝わってくる感覚。そしてそれは、すこしずらして感じ直してみれば、確かに痛みに似ているかもしれない。龍彦は、熱心に話しつづけた。
「何かを求めている。なにか。それが何か、いまのところよくわからない。でも、なにかを求めている。足りないんじゃないんだ。満たされているのに、もっとこう、何か。何か。何か・・・」
ちょっとうつむいて、くちびるに人差し指をつけている。龍彦は思考を巡らせている様子だった。けれどなにもおもいつかないらしい。不甲斐なさそうに、次善の言葉を継ぎ足した。
「当のおなかの方は、空腹感があるのに食べたくないんだ。まったく食べなくてもいいくらいなんだ。おいしいミネラルウオーターとイギリスパン、それからひとつまみのナッツさえあればそれで大満足なんだ」
「ふーん。乾きと飢えか」つぶやき、わたしは記憶をたどった。「なんか、バイブルに書いてなかった? 乾きがどうのこうの」
「乾きたる者みな我に来たりて飲めだろ」
「あ、そう。なんかそういうフレーズだった」
「そうなんだ・・・」
一瞬の沈黙のあと、龍彦の背後に閃光が走ったようにみえた。突然かれは何かを思いついた。「うけとってもらえる人を求めている、・・・乾きなんだ、流れ出る水を」
「はあ」
「そうだ。僕は受け取ってもらいたいんんだ、この想いを!」
わたしは、ちょっと戸惑った。エバンジュリストって、こんなふうになった人のことを言うのかもしれない。言い替えれば、おおいなるお節介様。そんな考えも頭をかすめた。でもたぶん、人は龍彦みたいになる前から、それを求めているんじゃないかしら。
龍彦と出会う前にわたしにはほんの少しの間つきあっていたカレがいた
「好いとる」
とカレは言った。九州出身で、あまり言葉のうまい人ではなかったので、それしか言わない。「好いとる」「好いとる」「好いとる」「好いとる」「好いとる」「好いとる」
なんども聞いている内に、S・U・I・T・O・R・Uという響きが帯びているものの正体が伝わってきた。
この人の好きは、自分を愛して欲しいだ。わたしが好きなのではない。とかんじた。それで別れたんだけど、龍彦の話しを聞いてわたしはすこし反省した。
あのカレは、わたしから出ずる水をうけとると言っていたのかもしれない。
「そうすると、イエスの言った『私は乾く』というのは、おかしな言葉だなあと思っていたんだけど、そういう意味だったのかな」
わたしは自信なさげにつぶやいた。
イエスは溢れ出している愛をもっと受け取ってもらいたい人だった。そんな感じかな。
自分を迫害する者や病気や貧困にあえぐ人こそ、その対象者だったんだ。
「飢えるの大歓迎なわけね」
「ウエルカムだ」
「吸い取る!」
カレはそう言ってたんだ。龍彦のだじゃれに触発されたのか、脈絡なく思いついた。
「好いとる、好いとるは、吸い取る。吸収すると言ってたんだ。カレは自分を愛させることでわたしの乾きをやわらげる人だったんだ」
気がつくと、わたしは独り言をつぶやいていた。
「ね、それなんの話し?」
「あ、こっちの話し」
「へんなの」
龍彦は怪訝な顔をした。
(後略)
ジョルジュとのやり取りを書き、しばらくしてから本を手に入れ、拾い読みし始めた。断っておくが、このやり取りを書く前に、わたしは『ガルガンチュワ物語』を読んだことはなかったし、実のところ毛嫌いしていたのだ。だが、この時代のことを思い出しているうちに、ふとこの本の題名が目の前に現れた。調べてみるとまさに舞台となっている、一五三二から三四年ごろの出版である。現在第一之書とされているのが、ジョルジュが続編だと言って持ってきた『ガルガンチュワ物語』であり、第二之書とされたのが当時先に書かれた『パンタグリュエル』であることは周知のこと。どこかで手にいれなくてはなあ、と思っていると、ふっと「あ、本棚にある」と来た。探すと岩波文庫の旧版が一冊だけあるではないか。以前、といってももう十年近く前に、もしかすると何かのタシになるかも、と思って古本屋で買うだけは買っていたを思い出した。しかしわたしは、こういった古典、すでに、大学の連中によって研究対象となった小説を敬遠する癖がある。やつらの手にかかればどんな滑稽本でも、なんだか堅苦しくケチをつけられたようで読む気がしないのだ。浅っぺらく未熟な学者がしたり顔で論じたり定義したりして、元は生きていた小説がズタズタに切り刻まれ細分化され、それがまるで精肉店に無惨に並べられた部位や残骸に思え、笑うに笑えないのだ。現に見よ、この、本文よりも、ーー遠慮勝ちにではあるが、ページをさいた訳者解説と略註を。それで、『ガルガンチュワ』は、ずっと本棚の肥やしになっていたのである。
まあしかし、この物語に限っては、やつらの毒牙は及ばなかったようである。おもしろ半分の解剖実験さえもものともせず、五百年という歳月をかいくぐり、いまの時代にも生き生きと生きていたのである。しかも渡辺一夫の徹底した研究は実に痛快だ。読み進むうちに、フランソワ・ラブレーは、ーーアルコフリバス・ナジエの正体は、乾きと酒について物語の最中にさまざまな仕掛けをしていることが観えてきた。飲酒が禁戒となっているカトリックの修得者でありながら、ラブレーはまるで酒を飲む事を善とし勧めているようにさえ思えてくる。手を替え品を替えしつこく表記されるし、さらには酒を飲むことが、まるで旨そうに描かれているのだ。
どうやら、わたしの読み解く所、喉の乾きは真理を求める心、そして酒は真実。同時に、喉の乾きは物欲を、そして酒はその目的物の暗喩であるようだ。彼はそんな暗号をこの物語に託しているのではないか。
たとえば、作中の主人公カルガンチュワは、その出産の折に、おぎゃあおぎゃあではなく、いきなり「のみたーい、のみたーい」と大音声でせがんだそうである。父親であるグラングゥジエは「お前の喉はでっかいわい!」と言ったそうである。このくだりなど、わたしにはこのように読める。
『この世に生まれ出た瞬間に、あの世のこと、あるいは真理をすっからかんに忘れてしまい、それを渇望し始める』
喉の乾きの始まりだ、と。
でっかい喉は、真理の飽くなき探求者を意味し、それに《神》の言い換えである《父》は感心したのである。おそらくはこれが、ラブレーのイエスの遺言に対する解釈なのではないか。そしてイエス本人に至っては、真理を受け取る者の乏しさに《乾いた》のではないか?
ここまでがいまのわたしの解釈である。
さて、わたしは読書をするとき、かたわらに辞書を置くのが習慣になっているのであるが、このカルガンチュワを読み飽きたとき、なんの気なしに『ジプシー』という単語をひいた。というのも、エインやカバラのことがよくわからなかったし、また当時のわたしが、生きていくために漂泊民と合流せざるを得なかったというのに、わたしはジプシーのことが何一つわかっていなかったからだ。三省堂 新明解国語辞典(第三版)には、次のように定義してある。
日本の山窩に類する、(・・・やっぱり)ヨーロッパの漂泊民族。箱馬車で移動し、生計は音楽・占い・鋳掛けなどで立てる。
これは今から、ほんの三、四日前のことであるが、その時には、こうとも書いてあった。
チゴイネルのこと。
括弧でくくってZで始まる馴染みのないアルファベットのスペルさえ。そのことを伝えようと仕事から帰ってきた妻に、
「やっぱり、箱型の馬車で移動していたようだ。ほら、おれ絵を載せてただろう? あの箱を馬に引かせて移動するんだけど、到着すると中から荷物を出して空にして舞台の裏にするんだよ」
とかなんとか得意げに説明し、
「ほら、あの辞典に書いてある」
と向うの台を指差した。妻は取りに行き、辞書をくった。
「そこにチゴイネルのことって書いてあるだろ? チゴイネルって言葉は初めて知ったけど、響きからして、ほらあのクラッシクのツィゴイネル・ワイゼンとかいうややこしい曲と同じだとピンと来たんだ。きっとツィゴイネルはジプシーのことだぞ。この直観が正しいか、調べてくれ」
言われるままに、妻は携帯で検索した。
「あ、ほんとだ。ツィゴイネル・ワイゼンはジプシーの旋律のことだと書いてある」
と言って書いてあることを読み始めた。
「だろ? ほらやっぱり」
わたしは鼻を高くしたい気持ちだった。「でさ、ついでに言うと、ジプシーって、エジプトから来た人ということで、その停留地がボヘミアだってことになっていて、まあぞろぞろ外からやってきて大道芸だの占いだのをやっているから、差別や迫害を受けてきた歴史があるらしくてさ、その末裔たちは、この頃では日本でサンカとかアイヌが人権を主張するのと同じかどうか知らないけど、自分たちは北インド系のロマですって名乗っているみたいなんだ。ちょうどあのペリーヌの母親がインドからパリに行くようなことをしてたんだな」
「うん」
「でもね、おれの感覚っていうか、知っていることによると、ジプシーはロマだけじゃなかった。やっぱりエジプトやアラブ、その他周辺諸国のあぶれものを集めた人たちだったんだ。本文にも書いていただろ? 戦争とか離婚とか、社会的個人的な理由で土地や家を失って独りになった人たちが、ーー集まるしかなかったんだ。そして流れるしか。土地を持たないから、農作物を収穫できないんで、芸とか占巫とか、辞典にも書いてあるけど、鋳掛けなんかをやって金銭を得て食ってたんだ。当時はこういう経済は新しいことだったんだ、まるでいまのサラリーマンみたいだな」
なにか、一個の当たりにかこつけ、それに権威づけて自分の説を正しいものにでもするような勢いでわたしはしゃべった。
「でも、辞典にはチゴイネルのこと書いてないよ」
「え?」
辞書を取り上げてジプシーのところを確認する。書いてない。
「うそだ」
記憶違いかな。家にある他の辞典をくってみる。書いてない。あの時読んでいた本の解説のところだったかな。などと思い返し、全部調べた。
ないのだ。
「どこに書いてあったかなあ」
あれこれ手当たり次第に本を開いた。が、ついてない。
「ネットじゃないの?」
「いや、ちがう。確かに縦書きで、しかもツィゴイネルとは書いてなかった。チゴイネルとダサい表記だったからよく憶えている。第一、ツィゴイネルがなんて発音するものかさえ、おれは知らなかったんだ」
「でも、辞典には書いてないね」
もしやと思い、ボヘミアンとかサンカのところをくった。やはり載っていない。
「おかしいなあ」
「なんかとごっちゃになっているのよ」
「そうかなあ、確かにこの辞典についてたんだけどなあ」
なおも食い下がる。
「きっと、幻覚を見せられてたのよ、ーー情報を与えるために」
「ーーそういうこともあるかもしれないが、そうかなあ」
なんだか歯がゆいような、煮え切れないような、釈然としない気持ちだった。わたしが見たと思っていたあの文字は、夢だったのか? それとも出典を忘れたのか。ともかく、ジプシーとツイゴイネル・ワイゼンが関連づけられた事件であったことは確かだ。
