この物語を書いているさなか、1月20日にまるで猩紅熱にでもうなされたような不安と共に目覚めた。夜中の1時20分ころだったろうか。本当にこんなことは珍しい。しばらくは夢と現実の区別がつかなかった。周囲にあるものが何か、まったく認識できないのである。何か、何か、と定義していると、B5版大のデータファイルが無数に並んでいる映像が見えてきた。さらに目が覚めると、それらが部屋の壁一面に設置してある本棚の本だと見えてきた。

ああ、やっとこちらの意識が戻ってきた。

気がつくと体中が痛くて、重かった。特に左肩がひきつるように痛い。意識は漫然として得体の知れない不安に包まれていた。電気をつけてトイレに向かう。40度の熱を出したときの気分と同じだ。急いで額に手を当てた。が、熱はない。とても不安だったので、別室に眠っている妻のところに行った。ところが、こんな日に限って起きない。ゆすってもつまんでも。しかたなく部屋に引き返して何が起きたのか深く分け入ってみることにした。瞑想などしない。パソコンをいじったり、あれこれやっていると、ふっと来た。

なんか、みたな。

目覚めの直前に残っていたかすかな夢の断片を思い出し、そこから辿ろうとした。だが、その映像がなにか認知できない上に、まるで私の介入を拒むかのように受け付けない。

なんかみた。

未来か。

過去か。

みらいか

かこか

自問を繰り返した。どの言葉に針が振れるか。

Aさんのことか?

Bさんのことか?

はたまた、

Cに対する懸念か?

どれも無反応である。

果て、

あのことか、このことか。

怪我でもするのか、事故にでもあうのか。

いや、そんなことはハナから選んでいない。

では、何か。

あまり急いで詮索する必要がないことは知っている。

お楽しみだ。

しかし、気になる。

それでひとまず、ここまでの状況をまとめておこうと思い立ち、こうして書いている。

ちょっと思い当たるのは、1、2週間前に夢の中で操縦していた宇宙船のことだ。誤って墜落でもしたんじゃなかろうか。

世界中から人が集まり、ーーほんの数名だったが、高地で飛行訓練をしていた。黒光りしている銀色の、平べったいK自動車ほどのいわゆるUFOにひとりで乗っていた。母船から離脱したそれはまるで、スキーのジャンプ競技のように飛んで行く。わたしは中に立っているだけだった。コントロールは『意識』である。自らの意識をあるところに合わせると、それに従ってUFOは動く。飛んだり止まったり。

私は質問した。

「もし、雑念がわいてきたりして、意識がおおきくぶれたらどうなるんですか?」

「それは大丈夫です。比較的高いところにある周波数帯域にだけ反応するようにできていますから」

と答えが返ってきた。すなわち、仮に私の意識を1から100までの周波数帯だとすると、90から100までを使い、それから外れてもUFOは操作できないというわけだ。声の主の姿は見えない。音声はないが、日本語としてはっきりと認識できる言葉であった。

よもや、あそこにもう一度行き、そして墜落。

その可能性を考えた。

しかし、それは皆無であろう。そんなへまなことは起こせるはずがない。人智を超えた科学技術にエラーの入り込む隙間はない。

それなら、なんだ。

なにがあった。あるいは、何を知った。

知る・・・。

・・・知る。

知る、という言葉に私のハートは反応を示した。

知った?

何を。

嬉しさがこみあげてきそうになる。

いまの私は何を知るのが一番嬉しいか。

金? 女? 名誉?

正直に言えば、どれも嬉しい。

何が嬉しい?

さらにハートに問うた。

何が嬉しい? 私は。

平和、アセンション、フリーエネルギー・・・。

それらも嬉しいことだ。

ーーいや、もっと深い所に何かある。

なにかが、こんにちは! と飛び出して来そうである。

私の正体?

確かにそれも知りたいことではある。しかし薄々は知っている。


左肩がやけに痛い。

そう言えば昨年からそこがわけもなくゾワゾワっとすることがあった。なんか取り憑いているんかいな、と思っていたが、憑いている以上憑けているのであるから、と放っておいた。

今は、痛みのかわりにそのゾワゾワ感がない。

これはどういうことか。

わからない。

私の意識はまだ漫然としている。無限の広がりの中にある、ここという感じだ。なんとなく頭痛もしている。脳の中がぼんやりと実感される。これは少し前から始まったことだ。どうやら脳の中の眠っていた部分が蘇りはじめているのだと思っている。たとえ重篤な病気の徴候だったとしても、別段構わない。死んだところでどうということはない。

心残りがあるとすれば、今生でやり残したことがあるとすれば。

私が知って嬉しいこと。

それは、宇宙の深淵。

真理である。

真理を知った?

もしそうだとしたら嬉しい。無上に。

知っていたことを知った嬉しさではなく、

単純に知った歓びである。

《進化した真理》を知った歓び。

トートの書き残したこと以上の真理。

それをこの世界で実現し、上手に操ることができたなら、もう思い残すことはない。

いずれ《理解》できる次元の意識にまであがってくるだろう。

その瞬間が来るのが楽しみだ。

そしてそのことが本編『バスティーユ』と関連していればますます楽しい。