恐れはなくならない。

知らずに恐れを握りしめているから、何でも怖い。

恐れることはない

いにしえより時々口にされた真実だ。

物や事に恐れが付着しているのではない。われわれがそれを恐れを以てみるから怖いのだ。

恐れるべき事などないのである。

ただ、知らずに恐れを握りしめているだけだ。

だから、『手放せ』という表現をするが、

では、なくなるか、というとなくなりはしないのである。

ある。

ある、ある。

恐れはどこまで行っても、ある。

どんなに排除して、捨てて捨てても、ある。

恐れを手放し続けること。

それはまるで、顕微鏡で拡大しながら、いつも同じ大きさに戻して、小さくしてはまた拡大するという虚しい作業をしているようなものだ。

では、どう観るか?

存在している。

凡てがある。

このことがどんなに豊かなことか、恵み多いことか。

そして、どんなにありがたいことか。

奇跡なのである。

奇跡、奇跡で埋め尽くされた豊穣な宇宙にわれわれはいるのである

このことに気づいた時、あるいは思い出した時、

ああ!

恐れがある。

恐れさえもあるのだ!

なんて素敵なことなんだ。

と感動、感謝して観られるのである。

手放すのが好きな人は、なんでも手放す。

好意も情熱も愛情も興味も好奇心も、

なんでもかんでも馬鹿のひとつおぼえみたいに手放す。

病気もカルマもトラウマも、

ぜんぶ、手放す。

それが執着というものだ。

手放すべきは、むしろ、それ。

手放すという表現が適切なのは、せいぜい、

知らずに、無知故に恐れを握りしめている時だけである。

恐れによって発想された観念がこびりついている時だけである。

直視しなさい。

そうすれば、あることを知るから。

知ったら、握るか握らぬかの選択を自らの意思によってできる。

けれど、生きていく上では、恐れに似た賢明な光、すなわち注意、警戒心、知恵、洞察・・・などは、うしろ積極的にあった方が善い、ーーなぜ善いか? この次元で神性を発揮していく、より発揮して生きていくこと、つまり霊性の進化を続けられるからである。この次元で。私たちはそれを選んで、ここに来ているのだから。

恐れの代わりに叡智で観れば善いのだ。

恐れをなくすことは、目的ではないし(当座にそう決めることはできる)、また不可能だ。存在を存在させなくすることはできない。

恐れも、存在の上に在る。

存在の上にあるわれわれがそれをなくすことはできない。

無駄な努力という経験をすることが可能なだけだ。

世界を破滅させたい、宇宙を消滅させたい。そうして、この苦しみを終わらせたい、と熱望する存在もある。もちろんだ。

だが、その一方で、神の意志とも言うべき、永久運動を理解し、それを機能させる存在もある。どちらの情熱が強いかと言えば、言うまでもない。

これら両者の拮抗によって宇宙は永続している。

神の意志に賛同した存在とは、宇宙の、あるいは《空》あるいは《おおいなるすべて》あるいは《一体意識》がいかに豊かであるか知ったものたちだ。なんでもあるし、なんでもできる(相手の意思に逆らわない限り)ことを知っている。

恐れや苦しみも宇宙の可能性のひとつだと知っている。これを知った者は恐れないし、苦しまない。あることを知っているが、それを選ばないのである。

恐れがあり、恐れの経験ができることがいかに有り難いか。

そ思えた時、喜びしかわいてこないのである。

よって、いまここに、

豊かな恐れという概念を私はあなたに贈ろう。

恐れは豊かなのだ。