とにもかくにも、簡単に言うと、《満たされた》というところから始めなければ、何事も成されない。


このことはいろんな方法でいろんな方が伝えていることである。


こうだ、ああだ、恐れがいけない、恐れることはない、罪悪感は余計だ、そんなものはない、第一、欲がいけない、自分は何も欲しくない、所有というのは本来・・・。そんな説教を聞くや否や、


そんなこと言うけど、お前には、財産がある、才能がある、運が好い、スタイルがいい、美味しい目にもあった、だから言えることだ、あの釈迦でさえ王家の出身じゃないか、生まれたときからなんでもある、もうこの世の享楽に飽きたから、なにも必要でなくなったのであって・・・と愚痴るが、


この愚痴は、まさにそのことを指している。


満たされた経験がいかに大事か。


人間とは、真理を知る存在であるのだ。誰もが知っている。


ところがそこで、自分はまだだ、まだ何も持っていない、満たされる経験をしていない、だからお前はそんな偉そうなことは言えないのだ、と多くの人がひがんでしまう。実にもったいないことだ。


だからいつまで経っても満たされないし、足るを知らないのである。


もちろん、人間の向上心は偉大であって、足るなどない。けれども、枯渇した心を満たされようとして求めるのと、満たされている心をもっと満たされることに動くというのでは雲泥の差があるのである。


わたしはみなさんに、ぜひ、満たされる経験あるいは体験をして頂きたいと思っている。そうすると、些末なことは、いちいちよく視えるが、それに拘泥しなくなる。ただ、満たされているという充足感のある余裕がある。あれはいけない、これはいけない、これはまちがっている、こうでなければならない、とギーギー歯嚙みしていきり立ち、正義を求め信じるに値するものを模索して彷徨うということはなくなる。


自分が絶大な豊かさを持っている、豊かさの中にいることが分かるのだ。この宇宙にあるもの全てはわがものである。所有の本当の意味は、すべてを持っている、わがみの内に包じているということなのだ。この所有観を思い出した時、力あるいは制約による強制的な同化・隷属から、同意・同志に移行する。前者は《ない》ことを前提にし、後者は《ある》ことを当然と見なす見なし方だ。


そうすると、どんなことでも、その豊かさの表現、豊かさの経験にしか思えなくなる。このマジックを時々、ほんの時々しか経験しないか、いつもいつもその状態であるか、本当に経験したいことはどこなのか、本当にそれを選ぶのか。ここをまず決意為なければ成らない。


この相対的で固くて制限の多い、時間のかかる次元の宇宙から、《空》に戻る回転(レボリューション)をするにはまず、なんらかの方法で、満たされたという経験を為さねば成らないのであるが、最も簡単なのは、拝むということである。あるいは祈る。


こんなことを言うと、ほらきた! という声が聞こえてきそうだ。拝むとか祈るなんて辛気くさい、と。


けれど、お金、仕事、名誉、を求めて、それが成されないと嘆き、愚痴り、裁判して回り、家庭不和を作り出し、暴力に訴え、深刻に落ち込んでいる方がよほど辛気くさいことをおぼえておいてもらいたい。


あの、柏手(かしわで)を打っておじぎをするという行為にはどんな意味があるのか、何を宇宙に飛ばしているのか。そのことをよく分かってやった方が効果が大きい。


でなければ、依存、下請け主義、ひとのせい、という念波を出すだけになる。


拝んだ、願った、あとは神様がやってくれるのを待つだけ。


そういう浅はかな他力本願をやっている姿はいとも滑稽で微笑ましい。


キツネやたぬきがいたずらしてやろうと思うのもムリはない。


相互依存、互恵、共同創造、そういった意をもって、いま地上におろされている最高の光を頂くことに心を開くのである。ーーあるいは、無心に。


あちらは、こちらの許可がなければ応じない。それは、交換条件でなく、自己選択の尊重である。


そうして、人間とちがうのは、求めれば必ず応じるということである。


求めよ、さらば与えられん。


叩けよ、さらば開かれん。


イエスが言ったのは、そういう意味である。


宇宙のスイッチは間違いなく連動している。わたしたちの許可さえあれば、(この、であればは、条件ではなく自己選択の尊重)絶対に、絶対にである、その光は降りてくる。そして、満たされる。拝めば拝むほどに、祈れば祈るほどに、念じれば念じるほどに、願えば願うほどに。そのパイプは太くなり、ますますわたしたちはその光に満たされ、その波動を放ち始める。


そして満たされたがさいご、やっぱりやめたと選び直すまでは効き続ける。


さて、ここからは霊性の物理学、意識の創造学の分野に入ることになる。簡単なことだ。


ひとたび、わたしたちがその波動に満たされるや、その波動に則した言動が開始される。つまり、音、電磁波を出し始めるのである。それは、言葉や行動となって現れる。


その波動と共鳴するものだけが浮き彫りとなり、また、引き寄せる。


自分が現実を創り出していることに気がつく。


これがどんなに豊かなことか知る。


得ていないことさえ、自分が選択していることを確信するのだ。


財産も貧乏も、健康も病気も、平和も戦争も、成功も失敗も・・・。すべて創り出せるこの世界がどんなにありがたいのか。こここそが天国なのだ、と。


これまでも天国だったのだ、と知る。


なにはなくとも幸せ、地位も名誉も金も土地も、なにもなくても幸せ。そういう境地に至るのである。


しかしここで勘違いするのが、では、地位も名誉も金も土地もなくていい、ということではないのである。ちがう。ますます、それらも得て行くことになるのだ。(もちろん、望めばであるが)自己史上最高のそれを。内側にあるものは外側にも達成される。(もちろん、望めばであるが)他人と比べてではない。


自分史上最高の、である。それで十分なのではないか? もっと成したければ次の人生もある。またその次も。いくらでも経験できるのだ。なんでありもしない、どこにもないようなものをもってきて、そうなっていないじゃないか、とか、ランキング1位の人物の業績や歴代1位の記録をもってきてまで、わざわざ卑下しなくてはならないのか。そうかと思えば、自分としてはよくやった、くらいに、自慰する。


満足が先にあるのだ。なぜ、金が欲しいか、才能が欲しいか、なぜ異性と戯れたいか、それは幸福を経験したいからであろう。より満足のいく幸福を。


幸福は満足からわいてくるものだ。


だからまず、満足に在ることが大事である。


なにも得ていないのに、それどころか何かを失ったのに満足するのは、満足していると言うのは負け惜しみじゃないか、と思われることだろう。


しかし、失ってはいないのである。なにも失えない。宇宙がぜんぶ自分のものであると見なしている時、失うという経験はもはや不可能なのだ。したがって、言葉で損失を埋め合わせて感情を慰めるのとはわけが違うのである。


自分の不埒や不注意から引き越した事故や災難を言い訳するために使うのではないのである。


そんなこと言うけどお前は視力がわるいじゃないか、それは治せないのか? 身長は伸ばせないのか? 不老不死は達成できないだろう? といった批判があるだろう。


この世の特典として、死と病気、ある種の制限を経験できるのである。しかしそれもだんだん拡大してきているではないか。この世もあの世っぽくなってきている。寿命は延びたし、不治の病も平気で治るようになってきた。あまりに治すと死ぬ理由がなくなってくるほどだ。


この世の中には、わざとぶさいくに生まれつくことを選ぶ者もたくさんいるのだ。そうして、お笑い芸人で成功するとか(このごろの芸人はイケメンも多いが)、心の交流をするためにあえて、という人もある。本当に心の分かり合えるパートナーと出会うためとか。目的に応じて才能を捨ててきた者もたくさんいるのである。したがって、誰も卑下することなどない。これは断言する。


光を浴びる。このことは、拝むだけで何もやらない、神様まかせ、一見するとそうみえる。


けれど、そうはならないのである。


それに見合った行動をしなければならないのではない


してしまうのだ。


自分の内面にある光(波動)と等しい発言と行動を取るのは必然なことなのである。


もし、これまでの自分であれば臆したことを普通にできるようになるのだ。これまでだったら躊躇したこと、羞恥心が働いたことを平気でできるようになるのである。


ひとは、本当に破廉恥でオカシな言動こそ平気でやるくせに、神ごととなると途端に尻すごみし、人と会った時のあいさつすら省略してしまう。


平気で、覗き見、陰口、タレコミ、暴力、報復、人権蹂躙、差別、偏見、戦争、殺戮、愚痴、偏執、嫉妬、妄想、疑心暗鬼、不平不満・・・など挙げればキリがないほど笑えることを繰り返しやっていながら、たったひとつ、無心に光を頂くことをおろそかにし、ないがしろにするのである。


ほんのすこしの感謝、陳謝、洞察、思慮、分別は毛嫌いして遠くに追いやっていながら、自分は不幸だ、わるい星の下に生まれた、親がわるい、時代がわるい、政治がわるい、近所の連中がわるい、としかめっつらをするのである。こう成りたいと言っているのは、あなたなのに。


1日、24時間の内で、たったの1秒も感謝しない者がどれほどいるのか数えたら、きっとあなたは驚くだろう。たったの1秒も自分の内面を観ない者がいることを知ったら、どんな習慣の持ち主か、そしてどんな現実を経験しているか、おのずと察しがつくというものだ。


どこかの神社に行って、鈴をふり、賽銭をあげ、そこで手を合わせ頭をさげても、けっ! としか思っていないのである。神を呪い、恨み、生まれてきた不幸を確かめているならば、神はそれを実現する手助けをするしかないのである。もちろん、その願いを叶えるのは、神と言ってもどんなレベルのものかおおよそ見当はつくことだろう。


まずは、信じていようがいまいが、その行為をし、している内に本心から出てくるようになれば、現実は組み替えられていく。むしろ、なにも思わない方がいい。と言っても、何か思うだろう。ならば、光が自分に降りてきて満ちている様でも想像することだ。けっ!と神を呪い嘲るのとは天地の差がある。


なにかがおおきく変わるわけではないかもしれない。しかし、ひとりひとりの心が平和になれば、社会も平和になるだろう。乱れた心をもって、社会を平和にするために戦闘するというのは何を実現、達成しているか、すぐに観えてくることにちがいない。


自分は満たされている。


宇宙の最高の光で満たされている。


この宇宙にあるものは、すべて自分のものだ。


そう思えれば思うほどに、感謝もわいてこよう。

ちなみに《空》という、いかにも空っぽみたいな状態が、満タン、すべて満たされている最高の状態なのであろう。虚とか、無とか、まあ、そんなに微細に区別することもない。大事なのは、あなたが満たされているかどうかである。


どうかどうか非力な私を光で満たしてください、ではなく、満ちている自分を認めることだ。満ち満ちている自分を認めることだ。ますます認めることだ。

為せば成るとはこのことである。