なにが意識の高いか解らないって言う人がいるんだよね。


ならば、こういうシッチュエーションを想像してみたまえ。


40歳の男と6歳の少年が遭難して洞窟にいる。


少年がパンを持っていた。


1「俺の方が年上でしかも体が大きいのでお前よりたくさん食うべきだ」と言って、少年からパンを取って全部食うのと、「おい、おれにも少しくれ」と言うのはどちらが高いか?


男がパンを一個もっていた。


2 少年に黙って食うのと分けるのはどっちが高いか?


3 分けるとき、男が裁量して自分が8、少年が2に分けるのと、半々に分けるのはどっちが高いか。


4 少年に8渡して自分が2食べるのと、少年が食べ終わるのを待って「腹一杯か?」とたずね、お腹がすいていそうだったら「これも食べな」と渡すのはどっちが高いか?


全員、答えを知っているではありませんか? 


「でも、おじちゃんもお腹すいてるだろう?」と少年はパンを手にして言う。

「ああ」

あいまいに返事をして「おれは、お前よりずっと長生きしている。これまでもたくさん食ってきた。だから、おなか一杯なのさ」と言ったと同時に、腹が鳴る。

「食いなよ」

さし出しながら、じっと目を見る少年。

「わかった。じゃあ、その半分だけもらおう」

ふたりで同じものを味わう。目を見合いながらにやにや笑う。


行間にいくつかの想いが錯綜していることが観えますか? 男の考え、少年の想い。そしてその行動に出たと同時に、《何か》を選んでいるのが分かりますね。


みな答えを知っているんです。


実際のシッチュエーションでは、こうした客観的な比較観察はありません。単純な2者比較に置き換えられないこともあるでしょう。実にさまざまな状況が生じてきます。実験室で答えたように簡単にいかないこともたくさんあることはわかっています。わたしもそうです。


それで私があるテクニックをお教えしましょう。おのおのの場面で、以前の自分より高い態度はどんなものだろう? と想像して実行する。これです。


「おれ、いま親知らずが生えてきて痛いんだよね」

と聞くや否や、「あなたそれはねえ、ねえ、どこから生えてきてるの?」

「左側の下」

「ああやっぱり。スピリチュアル的に左側は男。そして歯。ああ、きっとあなたは男の人に恨まれてるわ。噛みつきたいほど憎しんでいる人がいるってことよ」

と言っていたのを、

「ああ、それはねえ。下から生えてきているんでしょう? だったら、これまでやってきたことがやっと芽を出し始めるって予兆ね。上昇の機運があるのよ」

に変えるのは高くなりましたかね?

もし、これが上から生えてきているのなら、

それは、天から啓示が降りてきているってことよ。きっとすばらしいアイディアが思いつくわ」に変えるのは高くなりましたかね?


「おい、田中くん」

と呼びつける部長。すでにトゲがある。「この間頼んでおいたことはやったかね?」

「いいえ、まだです」ぶすっと不貞腐れて答える。

「まだって、もう1週間も経ってるじゃないか」

と、言っていたところを「どこまでできたかね?」などと、落ち着いて質問するのに変えるのは、高くなりましたかね?

さらに、「取っ掛かりが分からないなら、一緒に考えようか?」と言うのはどうでしょう?

「なんだね、きみは。前回頼んだのもそうやってやらなかったじゃないか!」と3時間くらい説教をするのと比べていかがでしょう、高いですか?


どうです、みな答えを知っていると思いませんか?


田中くんも、どこからどう手をつけていいのか分からないなら、すぐにそう言って部長に相談するというのは、どうでしょう、黙って握りつぶしているのと比べて高いでしょうか? いまの自分は仕事ができない、と素直に認めることから始まるのかもしれません。


以前の対応、以前の方法、以前の態度。今日のやり方の方が高い。それを追求していくのが悟り。実はすべての人が悟りの道に在るんです。無知蒙昧の無明にいるのも、立派に悟りに含まれることなんです。たとえば、ここからあるところに行こうとして歩き出し、道に迷っても、そこは目的地への最短距離ではありませんよ、と分かるためにたどったのであって、目的地への道の一途であることにはちがいありませんね。たとえるなら、これと似ています。


「いったいどういうつもりなんだ。給料分働いたらどうだね。会社はボランティアじゃないんだよ、ええ?」


と、これまでやっていたことを繰り返そうとして開きかけた口をちょっと待てよ、と振り返るんです。そういえば、おれはいつも同じ態度を取るなあ、取らないとなったら、それは見放した時だけだなあ。


と、諦めたところから始まるのかもしれません。


けれども、おれはまだまだだ、とか、おれなんか何をやってもダメだ、なんてのは向上心ではありません。怠ける理屈です。心を働かさない言い訳です。卑下するといかにも善いように思っている人が多いですが、これは本当にもったいないことです。こんな宣言をしてそれが口癖になると、苦労ばかりになってきます。それは、心を働かせなさい、自分が明るくなっていき、周囲の人たちも明るくしなさい、というメッセージなんですね、苦労は。


そうじゃなくて、おれは、叡智のかたまりだ、と思う。だから、どんどんアイディアが出てくる。どんどん進化する。もっともっとと深化する。実は、叡智のかたまりがフラットなんです。それをわざわざ下げているのがわたしたちなんです。中心に戻るというのは、なんども言いますが、なんでもなくなるんじゃありません。好運で、幸福で、健康で、叡智なのが、わたしたちの元々の姿だと認めることなんです。


ところが、わたしは、創造者と同じ要素でできている、全知全能だ、と見なすのは結構なことですし、そこから始めるからこそ、より高い、より許容した自分あるいはやり方を思いつくんですけれど、最高の真理しか要らないなどと言い「わたしは全ての恐れを手放した」などと宣言するのが究極の怠け者に早変わりします。向上心をなくした怠惰な者に成り下がっているのです。これは生きていない。呼吸をしていない。窒息した人がこういう極端な宣言をします。極端なことを言う人は生きながらにして、あの世にいます。早く死にたいなどとつぶやきますが、もう死んでいるのと同じなんです。いや、本当にあの世にいるなら、もっとマシでしょう。この世にいながら極端な空想に走る。理想を押し付けてまわったり、絶対善で裁いて回ったり。


わたしは叡智だ、と認めるところから始めるのですが、最高の叡智しか受け付けない、明るいことしか言うな、理想を押し付ける、となっては奈落にいます。自分が叡智なら、相手にも叡智を思い出させるものでしょう。悟っている人のまわりには悟る人が出てきて、また集まってきて、それゆえに覚者はさらに悟っていくものでしょう。


部長くらいになった人は、能力もあり、努力もし、がんばって背伸びしてきたひとなのでしょう。自分にやれたことは部下は誰でもできると思いたい。こんな自分にやれたことができないのは、やる気がないか他のことにうつつを抜かしているからだ、と思いたい。


ところが、ひとつだけ彼の勘違いしていることがあります。全員が、おぎゃーっと生まれて、同じスタートラインに立って走り始めたんじゃない、ということです。


たましいの経験がちがうんです。


全員、生まれた時から、たましいのステージがちがいます。部長以上になる人は、部長がその程度の発達度であることを知っている人です。


でも部長でとまる人は、そのことを知りません。


がんばったらなんとかなる、という認識でとどまっているのです。こんなおれだから、がんばるしかない、くらいのところから進んでいないのです。そこで眼をつぶっています。


以前の自分より高い態度はどんなものだろう? これまで続けてきた態度、もちろん、その裏には信念があります。その信念を発想させ、支持している意識があります。ここが大本(おおもと)です。そんなことはともかく、以前の自分より高い態度はどんなものだろう? こう問いかけるだけでもちがってきませんか。


そうすると、毎日やることはたくさんあるのではありませんか。マンネリなどありえないのです。働きをやめることなどないのです。働きって、ますます自分と他人を楽にしていくことなんです。能力と知恵を出し合って協力し、わくわくしてやるようになっていくことなんです。ひとりひとりが少しのことを出すだけで、しかも楽しくて仕方がなく、成果が大きい。会社に何十年もいる。何十年も家庭にいる。ならば、どんどんそうなっていかないとおかしいと思いませんか? 経験して試行錯誤して、知恵を得たなら、次にやるときには楽に、おもしろく、満足のいく結果を経験するのではないでしょうか。仕事ができるを超えて、衆智を集める。1+1を2以上にしていく。社会を明るく便利にしていくとはどういうことか。コンセプトをこれに転換しないかぎり、仕事のできない部下をしかりとばして定年を迎えるのです。


田中くんは、それを抜けるためにそこにいるのです。


しかりとばす上司を恨みつづけていた人が窓際を埋めつくすんです。やられたことをやり返さないだけで終わったひとたちかもしれません。


部長がどういう人かと関係なしに自分がどう在るか。田中くんがどんな人かと関係なしに自分がどう在るか。それを相手を前にして実行する。こういう自分を演じることのできる相手がどんなに尊いのかわかってきます。


なにがちがいますか? 高いと思えたことは。不安や恐れの少ないことですか、それとも、より愛の深いことですか? みんな答えを知っています。今回できなくても、次回は。次回にできなくても、その次には。チャレンジの機会はいくらでもあります。だいじょうぶです。そして、やり始めたなら、いくらでも上があることがわかります。いくらでも、深く、広く、より絶妙な調和があることがわかります。



洞窟、焚き火の炎が揺れている。

「おなか、へったな」

ひざをかかえた少年がぼっそりつぶやく。じろっとその姿を見た男、ジャケット内に手を入れる。

「じつはな」

少年、顔をあげる。男の手のパンに焦点が合う。

どうれ、と男パンをちぎる。右手に8、左手に2の割合でちぎれる。見比べる。少年の顔を見て、笑顔で右手を前に。

少年、なにも言わずに受け取るとがっつきはじめる。男、その姿を見ながら自分もパンを口に運ぶ。けれど、運びかけた手をとめ、少年を見ている。食べ終わった少年まだ口を動かしながら男を見る。

男、ほほえみながら、ほら、

「これも食いな」

少年、喜んでパンを受け取って食べようとする。けれど思いとどまって言う。

「でも、おじちゃんもお腹すいてるだろう?」

「ああ」

あいまいに返事をする男。

「おれは、お前よりずっと長生きしている。これまでもたくさん食ってきた。だから、おなか一杯なのさ」

と言ったと同時に、腹が鳴る。

「食いなよ」

さし出しながら、じっと目を見る少年。

「わかった。じゃあ、その半分だけもらおう」

ふたりで同じものを味わう。目を見合いながらにやにや笑う。


次の日、救援隊がやってくる。笑顔で手を振るふたり。救援隊がふたりを見つける。