チャネリングなどというのは、本の朗読にすぎない。誰かが書いた文章を読んでいるだけだ。それがうまいからと言って必ずしも聖人君子ではないのである。チャネリングがまだ物珍しいから、そんな能力がある者を普通の人間とちがうと見なして崇めたり、蔑んだりするのは、お笑いなのだ。眉をひそめた、いぶかしげなおサルさんの振る舞いなのである。
確かに高次の情報にチャネリングをする者は、その内にある己の高次を素直に認めそれを発信することを厭わない。それに対して否定的な観念や無知がないのだ。だが、かといってそのままなんの瑕疵もない完全無欠な人間なのかといえばそんなことがないことくらいやっている本人が気づいていないのなら、よほどのお馬鹿ちゃんなのだから、そんな者の伝えるメッセージなど真剣に聞くことはない。チャネリングができるというのは、多くの場合、特技にすぎない。他人の特技に嫉妬するのは、よほど自分の才能に気づいていないということだろう。
チャネリングなど、誰でも日常やっていることである。それはある意識にアクセスし読み解くことだ。だが、その能力に特に長けていないわれわれは、チャネラーの能力を借りておのれを見つめ直したり、また見習うことでその能力を開花させ使うことができるようになればそれで済むのである。チャネラーも、自分の降ろしているメッセージ通りに生きるよう、心がけたらよい。つまり、高次のメッセージというものは、必ず中立を言ってくるので、自分の望む世界でないことを忌み嫌ったり見下したりしないで、各々の選択を認めていくことである。
わたし自身いくにんかの高次の存在とのやり取りはある。しかしおのおの個性が強すぎて、ちょっと相容れない。高次に至れば至るほど個性が際立ってくるようで、どの存在もまるで異なるエネルギーを感じる。明確に違うのだ。どれが善いということはない。だが、どの存在も言っていることは納得できる。そしてわたしの場合、わたしが思いついてわたしの責任でやっているという実感を大切にしてることをあちらもよく知っているようで、あまり多くを口出ししてはこないし、結局は自分で決めて動くしか手はないのである。
チャネリングによるカウンセリングを生業(なりわい)としている者の中には、自分のやっている仕事が、自分の望まない人々を創出していると嘆いている者がある。つまり病院が継続するために病人を創出していることを知っているというわけだ。憖(なまじ)っかそんなへ理屈を知っているから、早くこんな仕事なくなればよい。この仕事が必要のない、つまりなんの悩みもない世の中になればよい、とため息をついて、理想世界の到来をいまかいまかと待っているのである。待っているということは、いまそうでないということだ。自分がそうでないのなら、いつまで経っても来るわけがない。そうかと思えば『自分は7つの大罪を手放した』などと宣(のたま)う両極端な人がいて、本当におもしろいのではあるが。
どうして、そうしたカウンセリングをしている人は、自分の仕事に誇りがないのか。なぜ、自分が悩める人あるいは病人を創り出しているとみるのか。なぜ、たったあと一歩。もう一歩踏み出せば、答えの中にいる自分、健全で健康な自分に目を開く、素晴らしい仕事をしていると認めないのか。わたしは不思議でならない。
本当に自分を生きている者は、楽しんでおもしろがって仕事をしている人は、自分と同じで、楽しんでおもしろがる人を創り出しているとしか思えないのではないか。自分のしている仕事をおもしろがり、また、それに触れた人々も、ぜひともおもしろい仕事をしていきたいと思わせるのでないだろうか。今生(こんじょう)でそれが叶わずとも、いつかはそんな境地に到達して生きていくと決意させる、なんらかの布石になっているのだと、わたしは若い頃から、心から自分の仕事を楽しんでいる名もなきおじさんたちを見て思っていた。
ところで、チャネリングなど自分には到底できないと思っているあなた、それはまったくの見誤りです。あなたは、いま現在も立派なチャネラーです。しかもフルトランス状態で。誰のか?
あなた自身の。
