下品な言葉、ネガティブな言葉は使わない、波動が下がるから。もっともらしい理由だが、それがおのれの語彙力を低下させ、視野を拡大させない信念なのである。いかにも高尚になったつもりかもしれないが、それこそ、怠慢の最もたるものである。
あれはだめこれもだめと、知らぬ間に、どんな言葉も排除して新たに憶えないものだから、旧態依然のありきたりの自分を繰り返す。のならまだいいが、まるで砂漠のオアシスのようにどんどん干上がっていくのである。そうなるともう、狭い狭い、窮屈な自分を守り、それを正義としてその他を裁き、糾弾するようになるのである。そうしてこうなった人が必ず吐くセリフに『私には、あんなところはひとつもない』がある。『そんなに安く見ないで』などとも言い出す。
日本語というのはとても豊かである。陰影に満ちた雅な言葉から、場末で吐き捨てられるスラングまで、どれもこれも人間の情念活動から発せられた尊い言葉であるとわたしは思う。一方を否定すれば、必ずもう一方も否定してる。どんなに波動の低い言葉でも、下品な言葉でも、もし本当におのれが高次で上品なら、その文脈に乗せて使えば、いとも色彩豊かで綾をもった美しく魅力的な表現ができるのである。
相手がどう意味をつけるかは別として、自分の表現力が乏しいのは、高尚であろうとして低俗を否定したり、明るくあろうとして暗さを否定したり、上品であろうとして下品を否定したりしているからだということに気づいた方がよい。語彙力が乏しいから、せっかく高次とチャネリングしても、その微妙なニュアンスを表現できないのである。社会の風紀を乱すからといって、ある種の言葉を差別し、言葉狩りする者の心が豊かであったためしはない。浅っぺらく、安っちい人間なのだ。少なくとも本人が思っているほどには誰も高く買っていない。
明るく正しく軽い世界を望んでいるからといって、愛と光と調和の世界を選んでいるからといって、それに見合わないことを切り捨てるなら、必ず手痛いしっぺ返しを食らうことになるだろう。どれも、単なる選択に過ぎないことをよくよく思い出してことに挑まれるがよろしい。
