体の痛み、あるいは家族の不調和などが生じたとき、それをイメージして何かそれを象徴する映像にして手のひらに置いて、ふっと吹き消すという方法があるそうだ。はじめてその方法を聞いたときから、わたしの中では首をかしげるものがあった。黒ブツを取る、ブロックを外す、カルマの解消、悪魔のお祓い、憑依を消滅、霊線を切る・・・。こんな謳い文句にも。結果として、また言葉の方便としてはそのような表現をせざるを得ないのが、この3次元物理、相対性の世界であることは知っている。だが、直にそんなことをするのは、お笑いだと思えてならない。

よくよく思い出してほしい。宇宙の真理は、物事はあるところに集まるという法則通りに動いているということである。あるところにあるのであって、ないところにないのではない。もういちど繰り返す。ないところにないのではないあるところにあるのである。このことは誰でも知っていることだ。ところがいざとなれば、ないところにはないかのように振る舞ってしまうのである。これが、手放し、黒ブツを取る、ブロックを外す、霊線を切る・・・。の方法がいかにも有効であるかのように錯覚させる、法則に反した人間独自の思い込みなのだ。

体の痛み、あるいは家族の不調和などの現象が生じたなら、それを創り出す原因となっている意識があるということだ。自ずから不調和を創り出し、不調和だと感じ、そして不調和を経験する。さらにその状態のまま、現象だけを取り除こうとする。これが、ないところにはないかのように振る舞うということだ。誰かに攻撃されたなら、自分の中から攻撃性を除去すれば、それはなくなる、と思うのは期待だ。それはむしろ相手に脅迫感を与えかねない。脅迫感を与えれば、攻撃されうる。

ここで唐突にわたしは全く別の方法を提唱する。どうせ、現象を象徴する映像を消滅させるイメージをするくらいなら、自分に光が入って満たされているところをイメージした方が理にかなっているからだ。どうしてなら、宇宙の真理は、物事はあるところに集まるという法則の通りに動いているからである。単純な話だ。光あるところに光あり。それだけのことだ。わたしたちの周りの宙空にはごまんとそのエネルギーがある。治癒のエネルギー、癒しのエネルギー、叡智のエネルギー・・・。どうせやるなら、それらを自分に受け入れ、満たされることをイメージした方が効果がある。それらのエネルギーは、わたしたちが入っていいと許可をしない限り入ってこない。そしてひとたび受け入れたなら、重力が物体を差別せずに平等に働き、微生物が有機物を分解するために勤勉に働くように働く。これには容赦がない。

誰かに攻撃されたと観えたなら、ーー攻撃と言える相対的に低い、分裂の性質を帯びたエネルギーはエネルギーとして感知されるだろうが、それはそれとして、相手は自分がより進化していくためにわざわざやってくれたのだ、と見なして、心から感謝する。これが光である者の態度であろう。攻撃する者の心の底には、神に戻る方法を必死に探しているけなげな想いがあるのだと観て、そこに対して語りかけるのである。ありがとう、あなたもわたしと同じ道をゆく者なのですね、と。こう在る自分を選んだとき、おのれの中には相変わらず攻撃性はあるが、出しているのは感謝という波動である。出したものを受け取る。これも宇宙の法則にちがいない。

攻撃という原因を取り除くのではない。それは絶対に取り除けない。なぜなら、それらを含む宇宙全体をわたしたちの内に持っているからだ。境地を選び換えるだけ。より高い波動で在ることを決めるだけ。そうすれば、原因が変化するのである。出すものが変われば集まるものも変わる。至極当然なことではないか。

攻撃が、あるいは痛みや不調和が悪いと見なすのは、不安や恐れだ。悪いと見なすから、取り除くと言う発想が生まれるのである。不安や恐れは、ないところにはないかのように振る舞うことを勧める。これは悟りから最も遠い境地である。物事を相対的にとらまえ2元的に表現するのは仕方ないとしても、その一方を悪と見なし、しれもまだ自分が何者かを示すのに有効であるのだが、それだけではあきたらず、攻撃したり、殲滅しようとさえする。これは自分自身から、光である自分から、最も離れた状態である。愛でもなければ、(観察者が愛なら、それも愛と観えるが)光でも、悟りでもない。不安や恐れにある者は不安や恐れを悪と見なす。

これらの状態にある者は、自己憐憫、自己卑下、被害者意識、嫉妬、貪欲、傲慢、罪悪感、瞋恚、独占欲、愚痴、攻撃、排除・・・。お笑いの姿をさらけだし、わたしを楽しませることになる。他者という差異がどんなに尊くありがたいことなのか、宇宙の相対性に感謝しないではおれなくなる。

だが、本当に体の痛み、あるいは家庭の不調和を変えたいと思うなら、何かにかこつけてたいへんな思いをする自分はもう十分と思うのなら、そうしてそんなことをしても進化しないことに気がついたなら、悪を攻撃し排除しようとする(2元論の)愛や光や悟りになるのではなく、ただ愛に、ただ光に、ただ悟りに在る自分を認め、それと一体であることを思い出すことだ。これが自信である。

愛、調和、叡智という栄光が自分にふんだんに入って来て、満たすことを許しイメージした方がよほど効果的である、とわたしは思うのだ。現象だけを消そうとする性根は、不安や恐れである。であるから、それらは現象にいくらでも再生産される。

手を放すのは、不安からであって、現象を1時的に消すのではない、そして愛に選び換えるのである。あるいは調和や叡智に。強調しておくが、(2元論の)愛や光や悟りではない。自分がそうしているからといって、全ての他者にそれを求めるのは、越権行為も甚だしい。おおきなお世話なのである。それこそが、おためごかしの愛や光や悟りである。自分さえそうであればいい。望む者に伝えればいい。おのれにそれの入ってくるのを許可しない者には入らないし、これが高次における敬意つまり不可侵性である。

栄光を浴びている自分を認めたとき、すべてが豊かで、健康で、何事もうまく運び、不測の事態がどれほどおもしろく(身から出た錆ではなく)心の奥底の願いのかなっている次元に自分がいることを知ることになるだろう。感謝がおのずとわきあがる。

そして浴びれば浴びるほど、強く深くつながって、さらにうまく機能し、心の底で本当に望んでいる、愛と調和と叡智のままに生きることになるのである。あるところにあるとはこういうことだ。