3番目の子は、いま小4の女の子なのだけど、これがどうしようもない出来損ないだ。幼いころには、ジェリーの真似をしてストローを10本つなげて牛乳を飲んだり、わたしの足の指の間にマッチをセットしようとした。
まあ、ブラックジャックに出てくる『ピノコ』とかトトロの『メイちゃん』とか、はくしょん大魔王の『あくび娘』とそっくりで、逆にあれらの漫画家がよくぞある種の女の子性をつかまえてうまく表現しているなと感心した次第だ。
娘の性向をうまく表す呼称として、はじめギボンヌというニックネームを思いついたが、フランスかどこかにいそうだ。それで、まだない名前として、ガボルバと呼びはじめた。(これは、当時グーグルの検索にかけても出て来なかったほどの珍しい言葉だ)もちろん、娘はいやがる。でも、ときどきそう呼ぶ。
で、そのガボルバ娘は、人形のリカちゃんとねずみのシルバニアを遊ばせているときに、マジックでヒゲを描いた。
「これじゃ、シルバリカじゃん!」
佐藤隆太風。
それからしばらくして、髪の毛をいじくり回し、モサモサのアフロヘアにした。
「これじゃ、アフリカですよね」
浜田岳風。
こんなツッコミを入れて楽しんでいる。
前に話したように、中古で買ったメタルテープに入っていた嘉門達夫を2、3度聴いただけで、1字1句たがわず暗記してしまうから手に負えない。特に『ハンバーガーショップ』がお気に入りで、ぜんぶそらで歌える始末。マニュアル化されたハンバーガーショップの店員をはぐらかそうと必死になって戦いを挑んでいる嘉門達夫。
このうたの歌詞にこういうやり取りがある。
店員 ここでお召し上がりですか、それともお持ち帰りですか?
嘉門 どちっちも、イヤ
ちにアクセントを置いた関西弁でヤクザ風に言い放つ。
ガボルバ娘は、算数が苦手と言い、1学期に終わるはずの計算ドリルを夏休みにまで愚図愚図と持ち越し、1週間ほどの補習の期間にも終わらなかった。
そこで、親切な担任の先生がガボルバ娘にこうたずねた。
「あしたも、学校に来て、職員室でやる? それとも、おうちでやる?」
すかさず、ガボルバ娘はこう答えたそうだ。
「どちっちも、イヤ」
先生は困り果て、立場上、苦笑すらできなかったはずだ。
そんな調子だから、きっと上のふたりの姉と兄とは相性がわるく、いつも口ゲンカをしている。まあ、わたしも何かの縁で一緒になっているのだからと、あまり強くはストップをかけない。ある程度はやらせておく。あまりに酷い罵倒語を使う時には、こうたしなめる。
「もっとおもしろい悪口を言え。悪口にこそ独創性が現れる」
そして、否定的な言葉、たとえば音痴とかかわいくない、といった発言にはフォローを入れておく。しかし、上のふたりも10年くらい一緒にいるので、やっとガボルバ遊びのコツががのみこめてきたようで、この頃ではやっと笑いが混じってきた。わたしなどは、彼女が話を始めて数ヶ月経った時には、もう正論を吐かなくなった。そういうタマじゃないと思ったからだ。(まあ、いろいろ教育的反論はあるかと思うが、ご勘弁を)
上のふたりが高校生になったので、この夏から、ちーちーゼミというのを開催することにした。これは、父とゼミナールをかけたものだ。
彼らが中学の時は、おやじゅく(親父×塾)なるものを開催していた。これはもう、千本ノックをするようなもので、次から次へと問題の応酬。時々解説をしてやり、こう付け加える。
「おれも、ときどきまちがったことを言っているかもしれん」
「でも、だいたい合ってるよ」
「9割くらいはな。だが、そこが落とし穴だ。ぜんぶを信用し切ってはいかん。おれの言っていることが正確か、腑に落ちるか、ようく観察しておけ。そして、不正確なら指摘しろ、理解できないなら質問しろ」
講義でさえ、100%こちらに委ねてぼーぉーっとは聴けないのである。
長女は、中学に入った最初の実力テストで200人中35位くらいだった。それが、3年最後の模試では3位になった。彼女の上にいた生徒はラ・サールと附設に合格した。ひとりはいま彼女が通っている県トップの公立校でベストテンにいる。いま、娘は本ばかり読んでいる。
長男は、中学に入った最初の実力テストで180人中75位くらいだった。3年の模試では最高位20番台にまであがった。いちおう、希望の高校に合格した。そしてなんだか知らぬがやたらと向学心に燃えている。
ちーちーゼミになって何が変わったかと言えば、教科の難易度がアップして、父の手に負えなくなったことである。だから、セミはこう言ってにげる。
「いいか、数学は心でイメージしろ。想像力だ。数式が心の中で動くのが観えたら、もう理解したも同然。
英語は、人の心理を想像しながら、正確に構造を解析しろ。
どっちも宇宙に在るものの人間的表現にすぎない。だから、お前の中にもある。それとアクセスしさえすればいい」
さらに、こう言って飛び去る。おしっこちびりながら。
「そしてもっと大事なことは、己の内にある論理性が心が納得するかどうかと同じということと、外国語で書かれた文章からより深い真理を描いたものに感銘を受けることだ」
これが、ちーちーゼミである。
わたしは10年ほど前、大学受験を研究していた。自分が受験生の時にはやったことがない。だから、いったい世の中(受験に関すること)はどう動いているのか、設問とはどういうものか、どのように作られているのか、そしてどう答えれば正解に至るのか。それを研究した。自分でも、Z会と進研ゼミの講座を数教科受講し解いて、いわゆる受験生というものを体験した。現役時代には、疑問と反抗心がまっすぐな心をそいでいたと思う、その反省でもあった。
中学時代から、上のふたりに時々わたしはこんなことを言う。
「理科とか社会とか、そんなもんは、とりあえずのことと思っておけ。試験のために憶えても、信じ込むことは自分に許すな。言ってみれば、法律と同じだ。いま現在、人々にはこう考える人が多い、こうすればうまくいくはずだという妄想を書き表しているだけだ。決して、正しいわけではない。その点でも、理科と社会は法律と同じだ。いくらでも変えられるまた変わっていくものだ。もし、がんばって保持しようとする者がいるとすれば、それは正義の側について人々を裁判して優越感にひたりたいだけなのかもしれない。より深い観点があるだろうし、それを探って行くのが、人生であり、また学問だろうと思う。
理科は、科学の名を掲げた。妄想かもしれん。いま見つかっている物証をもとに、研究者が勝手に結びつけたフィクションかもしれない。特に理論においてはそうだ。進化論など、科学の名を借りた似非宗教と言ってもいいくらいだ。そして、物理も生化学もすべて意思をもってなされている、と理解した時に観えてくる。3次元物理世界の言語すなわち言葉や数学であらわすのは、そのほんの表層、形而下のことだけだ。それが心象の世界、波動の世界、形而上の世界と結びついている、いや、その物理的表現にすぎないという観点からみたときに、彼らの振る舞いが理解できるのだ。
歴史についてもだ。いま見つかっている物証をもとに、その多くは権力者の意向にそって書かれた文献をもとに、研究者が勝手に結びつけたフィクションかもしれないのだ。
時代をさかのぼれば、だんだんないものができてきて、文明は前の時代より進化しているという枠にはめられて語られ、それから逸脱することができない。権力によりそうお抱え学者、生活のために学会の意向に従っている志のない研究者。そんな、リクツをこねまわして、言葉遊びをしているキンダーガーデンの住人の主張には耳を貸すことはない。大学とは、そのことを知るために行く所だとさえ断言してもいいくらいだ。教授の9割は、独創的な1割の学者を独創性があると認めたらしめるために存在している貴重な存在だと思っておけ。
であるからいいか、学校のどんな試験でも、良い点数をもらったからといって、威張るな。あんなものは、司法試験で点を取るのとかわらない。決して科学ではない。いま、そう言われていることにすぎない。
学歴は、学歴を気にしないでいい、劣等感をもたないですませるためにつけるものにすぎない。学問は、学歴とは関係なくやれる。
さあ、そのことを踏まえた上で、点取りゲームで点を取るには、今度は信念がいる。自分は必ず、これだけの点を取るのだ。取っている自分以外を自分から排除し、取っている自分だけを自分の部屋に住まわせろ。それに見合ったことをやれ。楽しんでやれ。工夫しろ。知恵を出してやれ。点数の取れなかった自分は自分じゃないとすら思え。必ず取れると思え。時間差はあっても必ず取れる、と。さらに、満点など狙うな。問題自体がまちがっているから。問題を作っている連中でさえ満点は取れない。来年になったら、模範解答すら忘れている。いいか。合格点さえ取ればいいんだ。受験は楽しいゲームだ。学問っぽい体裁をした。
意識を想像できない科学は、ガラクタだ。肉視できないもの、実証できない物をそれを理由にして、ないと見なして無視するのは、科学の名を借りた霊感商法だ。ありもしないものをあると言い張って高額の商品を売りつけるのとなんらかわりない。意識にこそ眼を向けろ。おのれの意識を観察しろ。なにを考えているか。その奥にある信念がなにか。そしてそれを生み出している意識がどんな周波数のものか。そこまで探って行け。いいか、それこそが科学の名にふさわしい。文系でも理系でも同じことだ。根源はそこにある。
よく聴け。お前にいまあるのは、幸福で、健康で、好運だというその実感だけだ。それ以外のものはぜんぶ嘘っぱちだ。(嘘っぱちで戯れるのは楽しいことだ)だが、どんなに物事を知っていても、どんなに正しい法律を知っていようとも、どんなに理論を知っていようとしても、幸福で、健康で、好運なのにはかわなわない。知識がいくらあっても、どんなに正しい側についても、霊視ができて超能力が使えても、いかに高学歴でも不平を嘆き不満で満たされ劣等感にさいなまれ病気と恨みにのたうち回っているようなら、真理とはほど遠い。われわれがこの世で、この物理的宇宙で肉体をもって表現するのは、いや、しているのは、真理だけだ。おのれの到達した真実、意識の周波数。これを表すしかないという真理だ。
いいか、わかったか。わかったなら、勉強しろ。」
ちーちーゼミはこうのたまって鳴き続けるのである。
いいか、わかったか。わかったなら、勉強しろ。いいか、わかったか。わかったなら、勉強しろ。いいか、わかったか。わかったなら、勉強しろ・・・・。
もちろん、ガボルバ娘には通じない。
「まーた、お父さんの宇宙のはなしが始まった」
と言って、さっさとどっかに行く。
このちーちーゼミは、1週間どころか、1生鳴き続けるから始末に負えないのである。
