僕はちょっとこういうことがあるんじゃないかと25年くらい前から思っていたのだけれど、つまり、受験のことについてなんですが、模擬試験より本番の試験の方が良くできたりすることがあるんじゃないかということなんです。
それも、共通一次、いまのセンター試験のような極めて大規模な試験の時に起きることなんですが、河合塾の模試とか進研模試なんかはトータルでも本番の受験者数には至らないし、たいていは日時を分散して行なわれている。ところが、センター試験は、同日同時刻に50万人規模の受験者が一斉に同じ問題に取り組み始める。その試験を受けていると、どういうわけだかいつもよりできる。なぜなんだろうと思っていたけど、その答えというか仮説は当時19歳だった僕にも簡単に出た。
つまり、たとえば数学の試験であれば、僕がその問題を解き終わらない先に、数学のむちゃくちゃ得意な人々の集団がその問題を解き切って喜びを覚えたということがある。その喜びに同調すると、正解に至った解法のパターンにアクセスしてうまい具合にナビゲートされて正解に至るということなんだな。
なぜ、こういうことを思ったのかと言えば、ちょっといざこざがあって受験校の折り合いがつかず、現役時代には数学をまったく勉強していなかった。浪人してから国立受験に切り替えた僕は、入試科目に新たにいちからの数学を増やしたので、春夏秋と模擬試験においては惨憺たる結果が続き、ずっと低迷していたのでした。
ところが本番ではいつもの倍の点数が取れた。それでなぜなんだろうと思ったわけなんです。つまり実力以上の点数が取れた。その理由があるはずだ、と考えたんですね。大学に入ってから、ユングという人を知り、無意識の世界の実験を読んでから、ますます確信を深めました。
いまの僕の見方としてはこうです。
受験者集団という意識のかたまりがある。その一部の、おそらくは20%くらいの受験生が僕より先にスムーズに正解に至った。解けたという喜びを伴った意識が集団の意識の中に創造された。こうして、こうして、こうすると正解に至るという明確なルートが形成された。その意識のかたまりは、受験生の意識という場に影響を与えている。場を構成している素粒子の動きに変化をもたらした。もともと胸を借りるつもりで受けている科目だったし頻出の解法パターンから外れた新作問題なら有利だというあたまがあったこともあり、苦手意識には同期せず、しかも青春時代特有の、答えのある問題くらい僕にだって解けるという妙に浮ついた楽観でもって挑んでいたので、受験数学得意の意識に同調できた。そういうことなんだと思います。
それから、僕が数学の勉強はつまらんと思ったのが、中学2年の時からで、それはまだ中1の時の数学担当の教師は数学の神髄を垣間見せる、元数学嫌いの教師だったのだが、2年になってからは、ずっと教壇の椅子に腰掛けて、なんの説明もないままただ教科書の問題の答を板書していくだけの、そして授業時間のたいはんは世の中の批判ばかりする、人呼んで教科書ガイド先生になったこともある。
それにも増して、生活のためにやっている学問がどれもこれもが嘘っぱちに思えてきて、バカバカしくなっていたこともありました。どの教科も授業を聴くだけで、試験はその時の思考力だけで取り組んでいました。そんな調子だから、高校生になったころには歴とした落ちこぼれでありまして、とりわけ英語と数学はさっぱり解らず、100点満点の記述式模試で8点を獲得し、偏差値の方が5倍くらい高いという成績をおさめるほどにエゴイスティックに成長していたのでした。
数学そのものには、たいへん興味があったのですが、その扱われ方が気に入らなかったんですね。それなら、自分で本物の数学をやればよかったじゃないか、と思われる方もおられましょうよ。ほら、どっかの予備校の数学教師は、おまえと同じ理由で数学をやらなくなったが、独自に勉強して、あるとき開眼したじゃないか。そうなんです。でも、いちおう反論しておくと、小学生の時分から矢野健太郎さんの『数学物語』を筆頭に彼の著作を数冊は読み、森毅さんの著作を読み、岡潔さんの著書を読み、また、カジョリ『初等数学史』とかカッシーラーの『実体概念と関数概念』とかダンツィクの『科学の言葉=数』などという本は大枚を叩いて買いました。魔方陣なんか、小学校の時に1日に何時間もうーうーうなって解いてましたし、フラクタルとカオス理論なんか、もう胸がドキドキするほど好きで、正規分布波形のことをガウス曲線と呼んでいました。どんな物でもランダムな分布がどうしてあんな波形になるのか、とてもワクワクします。フェルマーの最終定理の行方なんか、まるでドラマを観るような気持ちで追い続けていたものです。いまはやらなくなりましたが、僕らの頃には中1の時に集合を教えていて、関数と共にそれが好きで、トートロジーとかトポロジーとか聞くと興奮してきます。で、僕はなぜだかガロアが好きで、ほとんど夭折の天才詩人を見るような目で見ていました。
それがもう、制限時間の中で点数を取るのかと思うと、じんましんが出てきそうなくらい嫌いだったのです。大学に受かるためにゲームに徹してやりましたけど、ご飯を食べるのに役に立てる数学。そんなものは数学じゃない。その通りなんです。けれども僕は、あんなので点数を取れたって本当に数学がわかっているわけじゃない。怒りと共にそう思っていました。せめて、中学校の教科書に『受験のための数学』とでも堂々と銘打たれていたらよかったのに、と思います。建前は数学を名乗り、その実は、ただの点数ゲームというお遊び、この矛盾が青い僕には許せなかったのでしょう。いや、そんなことはどうだっていいんです。
ともかく、僕が興味をもったのは、どうして大規模集団が一斉に試験を受けると、実力以上の結果が得られるかという数学的パターンなんです。これは、僕が専攻していた社会学でも同じことが言われていて、社会は個人の総和を超えたもの、というのがその研究の出発点なんだそうです。これも、どういうことなのかを理解するのは、いまの知識では簡単なことですね。個人の意識と集団の意識は同じようで異なるということです。クラスにいじめの意識が創造・発生すると個人ではどうにもとめにくいということも、この両者の意識の関係にあるのではないでしょうか。
そして結局はこういう結論に至るのだと思われます。自分の意識をコントロールして、現実を作っている素粒子の運動を操作することで、望む現実を作ることができるし、誰でもすでにそうしている。問題は、よりハイレベルな次元でそれを行なうことである。
こんな観点からみていくと、集合意識にいかに影響を及ぼすかが、調和の取れた社会を作るのか、あるいは誰か一部の人たちの既得権益のための奴隷的秩序を作るかの方法がわかってくるのではないでしょうか。
物事の受容と理解が意識を高めるということであり、それは新たな認識に基づいた経験にチャレンジし、なにがどうなっているか、よく観察することでなされるのだと思います。それはまさに数学そのものなんです。

