例えば『人』という漢字をじっと見る。
すると、これは、たとえば2つの棒が互いに支え合っているように観えてくる。あるいは依存し合っているようにも観える。
いずれにせよ、他者がいなければ成り立たない。上にあって長い方、下にあって短い方、どちらも対等、どちらの棒が優れているわけでもない。どちらも、相手によって支えられ、また支えている。どちらがなくても倒れてしまう。そんな様子が漢字のつくりから浮かび上がってくることだろう。
ここから、人は一人では生きられないとか、調和が大事とか、そんな当たり前の帰結をするのかもしれない。
昔の人が漢字にこめた想いを感じ取ったのだ。
あるいは、その漢字固有の意識が伝えていることを感じ取ったのである。
同じように、夜空の、ある星をじっと見る。
すると、どうだろう? その星固有の意識が伝えていることのひとつを感じ取るのではないか。
その星が何億年、何十億年と観てきた自分の姿。自分の表面や内部で繰り広げられた生命たちの営みから学んだ知恵、そして叡智。これらをまるで石炭のようにたくわえていることだろう。
この中から、いま自分にとって最もふさわしい知恵を感じ取るのではないか。
同じように、夜空の、ある星座をじっと見る。
すると、どうだろう? その星座固有の意識が伝えていることのひとつを感じ取るのではないか。
その星座が何十億年、何百億年と観てきた自分の姿。自分のネットワークの中で繰り広げられた星々や存在たちの営みから学んだ知恵、そして叡智。これらをまるで原油のようにたくわえていることだろう。
この中から、いま自分にとって最もふさわしい知恵を感じ取るのではないか。
その森、動物、置物、石、遺跡、畑、山、谷、川、植物、砂、家、社、石碑、扉、池、自転車、柱・・・。
じっと見つめて波長を合わせれば、そのものの意識を感じ取れるのではないか。
わたしたちを担当している守護霊に、意識を向けてみてはどうだろう。きっと、彼らの伝えていることのいくつかを感受することができるのではないか。
彼らはわたしたちに内部化し、もの言わずして高次の意識を選択し続け、放ち続け、わたしたちが、これが自分だ、と、より高次の認識を責任をもって思うのを心待ちにしている。
人という字、わたしには、上にあって長い棒も、下にあって短い棒も、拡大鏡で観れば、無数の人という字で埋め尽くされ、さらにその人という字も、無数の人という字で構成されているように観える。
分野、担当、役割、係、レベル、差、関係・・・。
ひとりの人がいろんな場面で誰かと支え合い、そして共同して人をつくっている様である。
では、人間はどこにいるかと言えば、人と人の間である。
ここに第3の人格が創造されて相手を認知しているのではないか。相手そのものだと思い込んでいる相手の姿は、相手の固有意識が伝えていることから、自分の見たいことを見つけているのにすぎないのではないかと思うのだ。
全員が馬鹿に見える馬鹿も、固有の周波数を精確に計りながらも誰にも学ぶことがあるとみる賢者も、やはり両者の間に自分で創造した相手をみているのではないか。
したがって、人間とは人間観と同等なのである。すなわち、わたしがどのようにみなしているか。それが人間である。
しかもわたしがどうみなすかが、相手に影響を与え、それによってわたしと相手の間に、相手はあらたに創造されるのだ。
さらに、相手も変化し、わたしも変化している。人間観も変化している。ますます第3の人格は変化していく。
ゆえに、
相手の本当の姿は確定できない。
できるのは、わたしの姿の責任ある変化だけだ。
わたしが人間という漢字をじっと見ていて観えてくるのはそんな感じである。
