私というものを知ろうとするとき、ちょっとこんなことを想像してみてください。
まず、私という主格の大きな輪っかがあります。
それは、あの『○描いてチョン』のチョンの部分かもしれません。外側の最大の輪は、本当は大きさも面積もない、偉大さだけがある存在なのかもしれませんが、チョンが私です。チョンは外周の輪とつながっています。中心に在ります。いずれ大きな輪と同心円になります。その循環の様子のある一時期を描いたのが『○描いてチョン』です。
このチョンも実は、輪っかです。
その輪の中に12個のちいさな輪があるのを思い浮かべてください。
そしてその中に12個の輪が、そしてさらにその中に12個の輪があるのを描いてください。
さらにその中に12個の・・・。無限に輪の中に輪が在る。
輪というより、本当は球体なのかもしれません。
ともかく、私という存在は、無限の曼荼羅構造をしていると思ってください。
つまり、私という存在は無限の人格を有しているということです。
誰にでもなれるということです。
多重人格というのは病気にされていますが、誰でも多重人格者なのです。もしそれが病気の様相を呈しているとするなら、主格が自信をなくし、怯え縮こまっているから、どれかが制御不能になって出現し、さっき自分が言ったことを知らないとか、人格がコロコロ変わって一貫性がないとか、そんな姿を見せた時でしょう。
したがって、自己同一性(アイデンティティ)とは、主格による全人格の統制が取れている状態。と、さだめし言うことができるのではないかと思います。
で、主格の輪に属している12個の人格。すなわち、ある種の信念によってくくられた性格。<性>格、すなわち<性>の中から選択した格、ある帯域の周波数によって、私はいま私らしく在るわけです。
アイディアがわいてくるとか、インスピレーションがあるとか、チャネリングをするとか、そういうことは、すべて、主格の中に内包されている曼荼羅のどこかから来ている情報だと思ってください。
それは、12個の12個の12個の12個・・・といったより奥の方から来た情報かもしれません。私たちには常にそれらの情報とアクセスしキャッチできる可能性があるのです。
けれどもたいていは、自分にそんなことができるはずがない、とか気のせいだとか、自分にふってくるアイディアなんてたいしたことがない、こんなことを言うとキ■ガイ扱いされるかもしれない、などといった卑小幻想や恐れによって、それが自分自身であることを禁止していますから、潜在能力として亡き者になっているのです。
いや、これも自分だ。
このアイディアも私から出てきたのだ。と見なし、3次元的に実行する。3次元的に表現し、3次元的に形にしていく。
私たちは宇宙で唯一無二の個<性>ですから、同じアイディアを取り出しても必ず、個性的に表現されます。同じアイディアだから、どこかから持ってきたのだろうと疑う人がいても大丈夫です。少なくともフィルターやバイアスがかかり、必ず個性的に表現されます。恐れや卑小幻想を持っていればいるほど厚くて曇ったフィルターになりますが、それでも個性は見え隠れします。素晴らしい閃きを否定しても、その否定の仕方に個性があります。いわゆる《曇りなきマナコ》で情報をとらえることができたなら、純粋な個性の発揮されたものになることでしょう。
そのような状態になれば、奥の奥の奥底にあった輪が、それまですぐ主格に属していた輪に取って替わります。そうなると、めったに、まれに、ほんの時々しかわいてこなかったアイディアが、いつもいつもわいてくることになります。かわりに、否定癖や卑下癖、被害妄想癖などが奥の方に押し込まれ、そんなアイディアを思いつきもしなくなります。
たとえば、「たいていのカップルは、傷をなめ合うのが目的で一緒にいる」とかいう人がいても、ああ、そのことに関して観察・思索していたのは、はるか昔の太古のことのように聞こえてくるのです。本当はつい3つき前にやっとこさ観察しえたことであっても、古い古い記憶の断片にへばりついている昔おぼえた英単語くらいにむりやりひっぱり出さなければならないのです。
いまは、「ハートがふるえるくらい嬉しくて仕方がないことを、ハートがふるえるくらい嬉しくて仕方がない人と共にやる」としか思えない。そうでないなら、ひとりで音楽を聴いている。好きな楽器の響きを慈しんでいる。なんにしろ、自分と共にいる。それだけだ。というアイディアで動いている。
けれど、振り返ってみれば、私は会社時代もそんなふうに好き勝手やらせてもらっていたなあ、と思い出します。次にこんなことをしたらおもしろい、と思いつくと、社内外に関係なく適格なひとに声をかけてやっていた。さらに振り返れば、大学時代もそうだった。次にこういうことをやろうと思いつくと、どんどん周囲を巻き込んで実現していた。
いろんな自分が出てきて収集がつかなくなる人がある。
過去生だの、浮遊霊だのを一生懸命ひきこんで、これも手放し、あれも手放しって、手品の鳩じゃないんだから、と思うけど、そういう楽しみ方もあるんだろうなあ、と見ている。そういう高度な芸当をやっていながら深刻になって悩んでいる姿に、自信をもって楽しみとしてやってください、と言いたくなるし、自信をなくすと主格が眠りますよ、とも言いたくなる。
手放せません。
どれか選んでください。
すべて自分の中にあります。
前面に出てきていたり、奥に潜んでいたりしますが、ぜんぶ自分の内部です。
曼荼羅構造になっています。
ひとつひとつ発見していっている人にいきなりネタバレさしてすまないことですが、ぜんぶあります。
ぜんぶ、私の中にあります。
もう一回言います。全部、私の中にあります。
ですから、どれか選んで個性的に創造していってください。
せめて、主格によって統制、統合してください。
私の中にあるすべての人(霊)格は、私に仕えるものですから。なんでも私の意識のままです。
《言うことを聞く》という表現では誤解を生むので精確に表現すれば、《選んだ意識の通りになり》ます。
自分の中の人格と格闘したり、戦ったりすることはありません。
最初から最後までぜんぶ在ります。厳然としてここに在ります。
どの自分で在るかで、言うことも、言い方も変わります。
非難するのか、批判的に言うのか、フラットに表現するのか、法則として理解するのか、個性が隠れたような表現になるのか、個性そのものの表現になるのか、どれもこれも選んだ通りです。
選んだ通りにならないのは、気づかない観念が、こう在りたいという輪からの情報をブロックしているというか、隠しているからだと思います。
その時だけ、観念なりトラウマに気づけば終わりなのであって、観念やトラウマを見つけることも、それらを外していくのも目的にしてしまうのは、苦しみを味わうのが目的になっているように思えますが、いかがでしょうか?
観念やトラウマも、当座の遊びであって、それがあることを苦にしたり、外れなーいと嘆く必要もない。
前に、どこかの教団に入っているおばちゃんが、教祖の言うことをわけもわからず「ガハハハ」と馬鹿笑いしている映像を観たことがありますが、あれはどうなんでしょう。何も考えるな、馬鹿になれ、とそこの教祖は教えているようでした。確かにその通りなのですが、考えるとか馬鹿になるという言葉に対するあのおばちゃんの解釈には彼女なりの観念が関連していますし、判断力をなくさせて寄付させるのが目的なのでしょうか、教祖はそんな在り方こそ奨励するかの如くなんの修正も入れませんでした。おばちゃんもなりたくてそうしているのでしょうし、飽きるまではやり続けるのでしょうから、別になんの問題もないのですが。
馬鹿になって、というのは、実は形而上の在り方がよく分かっているということかもしれません。
そしてそれはいとも単純でシンプルなことなのです。複雑さを通り抜けなければ獲得しないことでもありません。もしそうしたいのなら、それはあえてやっている遊びなのです。(複雑さを通り抜けなければ獲得しない、と見なすのも信念です)
考えるな、というのは、頭脳の理性だけを使うのではなく、ハートの知性も使いなさいということではないでしょうか。
ハートの知性というのが、つまり曼荼羅構造にアクセスするということではないかと思っています。そこには脳に記憶した知識すなわち先入観的にしか使用され得ない2元論的な判断の領域を超えた、叡智も在るのです。(いろんなレベルがあります)
叡智の通りに、生きるのが楽です。
もう苦労とか葛藤とか、そういうのには飽きました。悩みとか愚痴とか嫉妬とか、もう十分です、もういいです。ご協力ありがとうございました。
わたしはもう、世間の常識がどうだとか、苦労マニアの押し付けてくる嫉妬だとか、そういうことに関知しないことに決めた。
『それは、あなたの自由です。好きなように生きてください』
愛をもってこう言います。
好きなように生きていることに気づいてください。
そうしたら、好きなように生きている人に嫉妬したり愚痴ったり攻撃したりもしなくなるでしょう。そんな暇はもったいないと思えるでしょう。
私はもう、こんなことが起きたのはあいつのせいだとも考えないし、自分の中にこういう観念があるからだ、とか未浄化の部分があるからだとも見なしません。ただ、そういうことが起きたんだな、そうかそうか。それはともかく、私はどう在るのを望むのか、もうこれしか思わない。
私は、変化する存在です。
常に曼荼羅構造を作り替えている存在です。
より深い叡智とアクセスしやすくなっていく球体です。
重力もありません。
ひじょうに美しい幾何学模様です。
どんなデザインでも創り出せます。創り出した通りの現実(=意識の3次元的な表現)を経験することができる素晴らしい存在です。
こだわりがいけないと見なして、好きなことや嬉しいことまで捨て去って苦虫をかみ殺したような仏頂面はしません。
醜いことは醜いと観て、だからといって嫌悪感で身を汚したりしませんが、美しいものは美しいと観て、それで喜びを3次元物理的にも肉体的にもおおいに感じます。喜びに打ち震えます。
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こんなことを『昭和とはいかなる時代だったか10』を書いていて、ちょっと一休みと、布団に寝転がったらすぐに思いついたので、起き上がって書きました。おちおち休憩もできやしない。
