したがって、

愛なんてないさ、

とか、

愛があるかどうか解らない

と思う(という意識でいる)より


愛は在る、

と認めることは愛という意識が在るということだ。

認識が高いということになる。

愛の実存を認めているのである。


親の愛は在る。

自然の愛は在る。

神の愛は在る。


在る。

在る 在る 在る 在る・・・。

無は在る。

無が無いのが在る。


愛とか自由とか無とか、

そんなものが無いと言い張るひとほど、どうだろう。

ひとの欠点にばかり意識をむけ、無い物すら造り出し、

やっぱりあるじゃないかと責めていないか。

卑怯、逃避、策謀、憐憫、嘲笑、嫉妬、猜疑、犯人・・・。

そんな妄念を造り出す愚昧さだけが、そのひとには在るのだ。

そしてまた、そのようなことを許している宇宙の自由さや愛に私は気づく。

愚昧さも結局はどういう愛なのか、と私は問いかける。


意識は存在を創り出し、

また、在ることを認めることが意識である。

在ると思えば(意識すれば)在るし、

(意識が)無いということは無い、ということが在る。


いずれにせよ、自分でつくりだした宇宙に私たちそれぞれは住んでいる。

毎瞬、毎瞬、創り変え、または選び直し、

私は私の宇宙にいる。


全ての意識の創り出している既存の宇宙が無限に在る。

なにが在ると認めている宇宙なのか。

<意識の周波数>とはそう言い替えることができるだろう。


極端に表現すれば、

愛の在る宇宙なのか、

愚昧さだけの在る宇宙なのか。

私は、<どこにいること>を望むか、

それがテーマなのだ。