意識が宇宙を発生させている。




<思考は現実化する>どころの話ではない。




もっと大規模なことが起きているのだ。




われわれの意識が進化すればするほど。






すべての意識が、いま、ここで、




それぞれの宇宙を発生させている。






原子は原子の宇宙を




分子は分子の宇宙を




細胞は細胞の宇宙を




心臓は心臓の宇宙を




私は私の宇宙を






私という霊体がその意識レベルに応じた宇宙を発生させている。




選んでいる周波数によって起動している宇宙を経験している。




おのおのが自分をどうとらえているかで、発生している宇宙が異なる。






たとえばそこに薬缶がある。




金属を構成しているすべての電子、中性子、陽子がそれぞれの宇宙を発生させ、




薬缶というひとまとまりの物も独自の宇宙を発生させている。




薬缶は自分がこうだと見なす宇宙の中で暮らしている。




私も自分がこうだと見なす宇宙の中で暮らしている。




塊のように見えて、薬缶は電磁波、周波数である。




それをが私の目には、金属で作ったこういう形をした物と映る。




ホログラムはあやなす光の錯覚で立体に見えるが実は光と誰もが知っている。それが触っても固くて指が通過しないので、まるで物質がそこにあるように認知されるのだ。だが、それは人間の肉体の原子と薬缶の金属の原子が互いに不可侵領域を取り決めているから、通常はそのように作動しているだけなのだ。




薬缶は、




自分ではどうすることもできない。ただ風と水と火山活動や地盤変動で隆起したり沈降したりしてしか動けない。変化できない、と自分を見なし、そんなふうにある。あるいは人間のようなレベルの意識が自分たちを掘り出し、熱をかけて溶かしたり、器具で曲げたり、叩いて伸ばしたりしないかぎり、風化と再構成を繰り返すだけだ。なにかの役には立てない、という意識なのかもしれない。






しょせん金属は物だ。人間より劣っている。どんなふうに扱ったて構わない。




文句も言わなければ泣いたり抵抗したりもしない。




そう思って乱暴に扱うのか、




「さあ、今からお湯をわかすよ。ここはひとつおまいさんの才能を十分に発揮しておくれ」




と微笑みながら火にかけるのでは、発生させている宇宙がちがう。






私の意識は誰かのもっと大きな存在の一部であってかつ私独自のものでもある。




大きな意識の一部であることを認めることで、生じる宇宙がちがってくる。




けれども、私独自の宇宙を発生させているのにはちがいない。






かつて宇宙は暗く冷たく固定されたものとして信じられていた。




そう信じると、そのように観察される。




いまはビッグバンから始まって、膨張していき、ダイナミックに変化し、そしてやがて収縮してしまう、と信じられている。




だから宇宙はそんなふうに観察される。




まるで、私たち人間の一生のようだ。




過去の人間の生き方に宇宙はなぞらえられ、そして現代の人間の生き方になぞらえられている。




では、いまここで、毎瞬、宇宙が、私独自の宇宙が発生している、とそう信じたら、私はどんな人生になるのだろうか?






宇宙がわれわれを発生させたのではなく、われわれが宇宙を発生させている。




と信じるなら、人生がどう変わるだろう。




そこまで想像性をあげたなら、どんな宇宙を創造できるだろうか?






始まりと終わりは同時にあるのだから、




どっちを先に思うかは、私が決めていいのではないか。




どちらがよりパワルフか?




テーマは、そこだ。




宇宙がわれわれを発生させたから仕方なく存在していると決めるのか。




だから精一杯いきようと決めるのか。




それどころか、私が宇宙を発生させていると決めるのか。






仕方なく生きてやっていると決めると、外側や他者に翻弄(ほんろう)されるだけでなく、




力で強引にねじ伏せ、意のままに他の人や物を操り、また奴隷にしたがるものだ。




金で操ったり、泣き落としにかかる。己の不遇を嘆き、被害を訴え、すがりつき、束縛し、眼を拓かせない。






あなたは、高名な社長の手足になって働いている人を見たことがあるか。あるいは、そうしたことがあるか。




その社長の手足は、あなたや他の社員にまで伸びている、いわば<延長された表現形>なのだ。




もし社員が心から信頼し動いているなら、その社長は徳が高いということになる。




徳の高さは器の大きさ。




それは他を包括し、自分を大きくする。




同じように、その社長も、もっと徳が高く器の大きな存在の手足である。




同じ階層の人々は手を取り合い、異階層の人同士も連関している。




共に学ぶ。




だが、その流れや動きは異なっている。誰もが好きな階層にいる。

愚痴の階層にいる人々も手を取り合い愚痴を言い合う。互いに疑いに信頼を置きながら。






私が大宇宙を発生させていると見なした時から、その認識をしている人々の手を取り合っている次元にアクセスし始める。そこで起きていることが起きてくる。そこの価値観、認識、現象、成り行き、展開、転回・・・。なんともはや喜びと感謝しかない。




流れに身を任せていればよいと、素直にゆだねるのが摂理だと感じる。




それでいながら、私は私。




個性がより強調される。




物質的・現象的な望みは薄れ、ところがかつての望みがふんだんに叶えられ、




流れに身を任せていることの悦楽、愉楽、愉悦こそが何よりの贈り物となる。




それこそが真に望むものであり、贈り物の豊かさに驚嘆して感謝しないではおれない。






自信とは、自分がいまこの瞬間、大宇宙を発生させていると信頼することに他ならない。




<思考は現実化する>どころの話ではない。




われわれは、大宇宙を発生させているのだ。




私が宇宙を発生させている張本人なのだ。