前回の記事で稲荷神社の案内板の内容がちょっと不確かだったので、もう一度散歩に出かけ今度は写真を撮ってきた。これを読むと、慈禅尼のもってきたのは必ずしも安徳天皇の霊ではなく平家の魂(=武運長久)だったようだ。
さて、今回は予告通り『<性>について宇宙意識から聞いたこと』を書いて行くことにする。
この意識は、自分のことをサンと名乗ったと思う。それでネットを調べてみると、前里光秀さんという人がこれをチャネリングしていることがわかった。それと同一の存在なのかは定かでない。だいたいかれらは自分の名前にこだわっていないし、こちらが波動を読み分けて同一か異なるのかを見極めなくてはならない。前に私が書き始めて、最後の2回が下書きのままになっている『夢から醒めた夢』に出てくる宇宙人は、どうもリラ系のベガ人ではないかと見当をつけているが、これも定かではない。共通して言えることは、どちらにしろ日頃自分では考えつかないことを、そして真偽がわからないことを教えてくれるということである。正直、よく理解できないことも多い。地球の科学で言われていることとは違うので戸惑いもする。けれども心の奥底では、知っている。納得しているという感覚を得ているのだ。
私が知っていることをつらつら書いて行く。まず、イントロダクションのようなところからであるが、現在、地球の周辺には常時1000くらいの異星人がいるということだ。入れ替わり立ち代わりで、のべにするともっと多い。その中でガイアの許可を得て地球人と直接おおっぴらに交流している宇宙人はいくつかしかない。そのひとつがサンだそうだ。
これは集合意識という形態ををとっているので、ひとつの存在であるが<私たち>という言い方をする。通常は個別にある意識を融合させてひとつの存在にしているのだという。このことは、私たち自身にも言える。私たちの主体という袋の中にはいくつもの意識体があり、仮にそれを12個とすると、その12個の中にも12個、その中にも12個といったふうに無限の意識体があるのである。まるで曼荼羅模様である。そして私という主体の意識が向上すると、その周波数と同調する意識体が前に出てくるというか、それと交信するようになるというわけなのだ。よく言うガイドとか守護霊というのは、そういうカラクリで私たちと共にあるのかもしれない。
地球にはこっそり入って来ている不法侵入者も黙認されている。もし本当に許されていないなら、決して入ることはできない。
人間が住むことを許していること自体、ガイアがいかに寛大で慈悲深いか。それ以上のたとえば4次元と言われているレベルの存在たち、レプテリアンだのイルミナティだのドラコニアなどは、当然住むことができるレベルにあるのである。人間の暗い想念が創り出した魔界、幽界などにも自然それにふさわしい存在たちが宇宙からやってきて住み着くのである。
そしてかれらもすべて機能してきた。目的のレベルに応じて、もし人間を中心にするならかれらは全て私たちを助けてきたのである。戦争に駆り立て、金融恐慌を引き起こし、オイルを牛耳り、原発で脅し、人間が霊性に気づかぬよう洗脳して奴隷化してきた者たちも、とりあえずここまで物質文明を発展させてきたのである。その是非は問えないが、霊的にも科学的にも発展して両者が足並みを揃えた時に初めてもっと上の在り方が開花するのであろう。と見なすのが次元上昇であって、やられていたのを気づいたからと攻撃したり、自分もよその未開の星に行ってやりかえそうとするのは深刻な遠回りなのだ。しかしそれも自由な選択である。5次元6次元の認識に到達した人やその人たちの創る集合意識にはイルミナティたちの画策は侵入してこない。そしてまた、より高次の存在たちのもたらす知恵や仕切りによって、レプテリアンもイルミナティも出口の方に案内されているのである。「お帰りはあちらです」と慇懃に礼と感謝を捧げられているのだ。ちょっと高級な悪役がいなくなりつつある今、ニコちゃん大王風な蓮っ葉な存在が入って来ているようだが、これは安い押し売りみたいなものなので微笑ましく眺めていればよい。
サンに限らず、地球を訪れるより高度な存在たちが口を揃えて言うのは、地球人は眠りこけている、夢遊病患者の集まりだ。ということである。忘却した目的をあまりにも忘れ過ぎている。意図して忘却したことを忘却しているというのである。それゆえにこれまでも詩人や覚醒者によって歴史的に真理が伝えられてきたが、だいたいが蹂躙され抹殺されてきた。これからの時代は、信者が観念として信じているというやり方ではなく、真理を思い出している人が集合しているという状態になる。常に思い出し続けられるように常に誰かが思い出している。思い出しては忘れ、忘れては思い出して、誰かが忘れても誰かが思い出しているという状態の交流を続けることで、全体としては常にあるレベルの真理を思い出している状態にある。真理とは、霊性の物理学であって、例えばネットを通して交流することで、眠っている意識には高度だがなんということもない普通のことを共有する文化を創っていくのである。
サンは地球人にたいする教師としては新参者である。ほんのここ数年で数万年の歴史を調査し、知性の程度、科学の発達度などを把握した。地球人と交流するに当たって、まずかれらは言葉を学習した。
たとえば<分離した私>という意味を表している「あなた」という言葉の周波数は、「私たち」というよりも低いが「あんた」より高いといったふうだ。アネゴ肌の女が「ねえ、あんた」と自分の情夫に呼びかけるときと正式な取引の場でビジネスマンが「あんた、なにいっての?」と怒って言う時ではもちろん周波数がちがう。それらをすべてーーすべてなのだ。ランダム抽出ではない。現在、そしてこの数千年の間に発せられた「あなた」をすべてサンプリングし、すべての周波数を測定してグラフ化する。「あなた」がこの数年ではどんな周波数で使用されたかを「あんた」と比較してあるいは「私たち」と比較して、言葉の意味を知るのである。
「あなたたち」と言うより「あなたがた」と言う方が周波数が高い。そこには敬意というニュアンスが含まれているからだ。「You」には、発話の仕方でしかそのニュアンスを含めることができない。
地球の中でも比較的めざめている人は、相手のことを「お主」と呼び合っている。「お前」とか「貴様」が当てている字面の意味に反して周波数が低いことをグラフは示す。このグラフは、平面的な正規分布表ではなく、立体の山型のものである。
「拙者」は「私」より己を低めているようだが、実は己に対する敬意があったことを示していたのが、その言葉が煩雑に使われていた時代とは異なる時代に生きている私には驚きであった。したがって「せっしゃはーー」と発話している侍には、自分が好き、みたいなニュアンスがあったのである。しかも品格を表現する高い周波数を有していた。
そしてかれらがどうやって私たち日本人と意思疎通するかといえば、たとえば『みなさんは眠っています』と伝えたい時、<みなさん><は><眠って><います>という順番に<324ヘルツ><100ヘルツ><369ヘルツ><500ヘルツ>の周波数を送り込んでくるのだ。すると私が<あなたがた><は><眠りこけて><いる>と自分の中でその周波数に最も近い言葉に変換するのである。参考までに英語の語順なら<みなさん><は><状態です><眠りの>となるのかと思ったら、これもまた<You><are><sleep><ing>と並ぶのである。ユ・アー・スリープ・イングとまるでロボットみたいなつなぎ合わせの発音になるのはそのためだ。
そすしてまた、眠っているという言い方は比喩的に使っているかと思ったら、そうではなく、文字通り眠っているのである。私たちはこうして3次元物理世界で活動している時、目覚めていると思っている。しかしこれが眠った状態なのだ。バリバリに忙しくて、わさわさと理性をフル回転させてバタバタしている時ほど、眠っている、自力でなんとか事態を打破しようと頑張っている時ほど、眠っているのだそうだ。そしてまた、(めんどくさいなあ)と思って日がななにもしないで願いのかなった空想にばかりふけっているのもまた眠っているのである。これには酔生夢死とかいう言葉があった。
ところでこの、めんどくさい、と思って腰が重いのは、とても複雑な精神状態にあるのらしい。最高に忙しい状態なのだそうだ。そしてさらに、めんどくさいと思ってはいけないからすぐやらなくちゃとか、ああまためんどくさいと思ってしまったとかいうのがさらに複雑さをこじらせている状態なのだそうだ。それをさらに他人に強いてやらせようとするのは余計にこじれている。
話が逸れた。ともかく、伝達するには、かれらの伝えたい内容を概念化し、さらに周波数に直し、それをモールス信号のようなパルスにして順次送り出す。それを受け取った私なりチャネラーがそれを自分の中で最も近い言葉に変換しているのである。
もっとおおがかりにやるときには、集合意識となったひとまとまりの存在の中に『通訳者』をまぜておく。そして科学的なことを伝えようとする場合、科学者が意を抱くと、それを通訳者が的確な周波数にコンバートし、発信する。人間でもそうだが、このコンバーティングのセンスのある者がいるのである。そしてこの作業は、かれらの持つ知性的なコンピュターではなく、高度な知覚のある人格霊が行なった方が効果的だと言うのである。それは、的確さという点で微妙なセンスのともなう作業だからだ。対話者の放ついくつかの周波数の混合した意を正確にとらえ、正確に翻訳して科学者に伝え、それを受けた科学者がユーモアとウイットに富んだ周波数をまじえて返す場合、人間の同時通訳のように外国語をしゃべっているその様は見えないので、笑っているのか怒っているのか、それをまるでコンバーターの存在がないかのように通すには個性としての才能があるというのである。
で、やっと<性>の話に行くのである。私は、宇宙をつくった根源の存在は<創造の神>だと思っていた。ところがどうやらそのとらえかたは物理的であるようだ。
前に私はスピリチュアルの要諦は<ユニティ>と<セクシャリティ>にあると書いた。ある朝目が覚めるとそのことを知っていた。<一体性>と<創造性>が基本だと。その統合した状態が男性性と女性性の融和なので、性行為は両方を同時に経験する神聖な経験というのが納得いく、と思っていた。
たしかにそれはその通りなのだが、<一体性>と<創造性>は、どこから生まれたか。それが<性>だと言うのである。つまり<一体>性であり、<創造>性である。一体とか創造という概念も<性から>生まれた、というよりそこにはすべてがある。一体も創造も<性>にあったと表現するのが正確である。
<男>性、<女>性。たしかに両者には<性>の(問題が)ある。
ふたつの<性>は一体化して愛の結晶である子供を創り生み出す。おおもとの<性>あるいは大いなる<性>と同じことをやっている。
<性>行為とは、<性>に戻りまた<性>から自己(によく似た存在)を増殖させる創造的な活動と言えるのではないか。
私はフロイトの熱心な研究者ではない。したがって専門家にはおしかりを受けることだろうが、かれの提唱していた<リビドー>はこのことを指していたのではないか。
それは表面的には、いわゆる性行為や射精欲として熱望される性欲としてみえるかもしれない。しかしもっと深く探っていけば、<創造>すら内包している<生命の本源>、エネルギーとさえ呼べない、あらゆる状態の有る<無>と言えるのかもしれない。<存在>と表現するしかない存在。それが<性>なのであろう。
個<性>はその<性>から分化し、<性>のエッセンスすべてを有しながらもどれかを特徴的に持ってる存在である。
個性を発揮した個が集まることで<性>により近い意識存在に戻るのである。
こうなった時の創造的なパワーは計り知れないのであろう。
私たちひとりひとりがやっていることは、食うために仕方なく職業に従事することではなく、個の才能を引き出し、進化させていくことのだ。すでに誰もがそうしている。気づいているか、忘れてそれとは異なった限定的な定義の中で独善的な行為をやっているはずだと見なしているかのちがいである。
<性>とは、性質というより全てを意味していると解釈した方が正確のようだ。
生、聖、精、正・・・あるいは星、静、清。これらは<性>の一側面だけをとらえた同音異義語であるが、その本意にせまれば必ずその対義語も含んでいる。
ともかく<性>は、すべて有る無、おおいなるすべてというものである。
したがって可能<性>とは、<性>が可能だと言っているのである。すべて可能だ、なんでもできる、と。
創造<性>とは、<性>すら創造し得ると言っているのだ。
<性>は自分で創造を内包し(生み出し)それが自分自身を創造するのも可能なのである。
私たち個<性>も、その創造性を発揮して自分自身を新たに創り出すことが可能なのである。いかようにもなるのだ。たしかに地球だけでも、われわれは人間のあらゆる多様性を見ている。歴史的にもそうだ。ヒトラーからキリストまで、富士山麓の腐海の白骨からビルゲイツまで。宇宙規模ならさらに壮大なスケールでその実践を発見するであろう。自分もそうなれるのである。そうなることを自分に許しさえすれば。したがって、なにを自分に許しているかが人格の差異なのである。
以前、前里氏が『可能性を哲学する』という題名の動画を聴いたことがあるが、その時にはよく分からなかった。それがいまはよく分かっている。よもや彼の言わんとすることとは異なるかもしれない。けれども、私のハートは腑に落ちて知っている。
ところでフロイトはトートとして知られるエジプトの神の姿が好きだったようだ。通常は、トキの頭をしているトートはヒヒの姿もしていたという。トキは知性、ヒヒは本能(リビドー)を表していた。両者が同時にあったトートを愛するというのは、どのレベルから観ても人間の本性を的確にとらえていたのであろうと推測される。
フロイトと言えば、アインシュタインとの往復書簡を読んでから、あまりの認識の低さにこれが世界的に有名な学者かとうんざりしたおぼえがある。ふたりは戦争についての意見を交わしていたのであるが、『人間には攻撃本能があり、戦争をやめるにはその衝動を内側に向ければいい』などと言っていたので、この人はふたつの点で人間に対する認識が狭いと思ったものだ。動物にある攻撃本能はエゴではなく、種の保存にきいているのであり、人間の攻撃衝動は本能というより霊的な覚醒度の浅さによるものであり、その衝動を内面に向けたところでいや向けるからこそ他者に向かって攻撃するのではないか、とちょっと怒りをともなっていたのだった。
彼のもとを訪れる病的な状態の者ばかり観ていたら、彼のような結論になるのかもしれないが、まず生物学者は動物にたいする観察眼が狭い。低く見なしている。いまだにローレンツを信じている。弱肉強食などというのが単なる見方のひとつでしかなく、それがどんなにセンチなものであるか、科学どころかへたくそなポエムと等しいのである。しかも人間を観察するために、動物を低く見なした上で観察し、その成果を人間に当てはめる。これがいかにおかしな方法論であるか、いまだに気がつかない。
人間はすべて信念(霊的な認識=焦点を当てている周波数)によって行動している。『山月記』ではあるまいし、気づいたら前後不覚になって目の前のウサギを食べてましたということはない。人間には、いわゆる本能ではなく、自覚の程度の差によって行動の差があるのである。一般化してとらえることはできないのではないかと思う。もし普遍的なことを言おうと思えば、信念=霊的な認識=焦点を当てている周波数と言動の結果生じることの観点から調査し直した方が賢明であると思う。
ヒヒは<性>を表す象徴としてあったのではないか。そしてトキが知<性>を表している。<性>を知る。それが知性、あるいは知恵、叡智というものであろう。
その叡智は『エメラルドタブレット』に書き残してある。
<性>を知る者、トートによって。
さて、支配者足らんとする者たちは、みなこぞって人間の性欲に目をつけた。
これは通常にみられる性欲、射精欲である。マントにシガレットを入れたい、シガレットをマントに入れたい。そういう衝動である。これが<性>に直結していることを見て取るのである。どんなに盛んか、すぐに知るのだ。これをコントロールすることが、<性>という万能の能力を押え込む手っ取り早い方法だとすぐにわかる。
第一に、さまざまな戒律を作り出す。
そして第二に、あらゆる射精産業を促進させる。
性欲は創造性とも等しいので、ありとあらゆる方法が考案される。それらは夜に行なわれる。
抑圧の方法が、禁止と奨励にあることを見抜かなくては成らない。禁止にばかり目を向けて反抗し、逆に解放と称して促進奨励をするのは、支配者の片棒をかついでやっているようなものだ。しかも無償で。最大のボランティアが極めて限定された意味においてのフリーセックスの奨励である。これは宇宙の常識である高度なフリーセックスを否定する結論を導く。そこにエイズとかなんとか人工的につくられた病気をあてこんでくれば人々が<性>に恐れをなすのは目に見えているというわけだ。
フロイトのもとを訪れていた臨床患者たちは、性行為に対してあれこれと狭い観念を与えられ<性>に対するゆがんだ信念を構築した人々だったのではないか。すると喜びとしてストレートに発揮されず、暗い周波数を伴う思考や感情をつくりだし、また引き込み、そのエネルギーが発露できずにぐるぐると駆け巡る。個人の中と社会の中を。
<性>すなわち神を支配した!
と支配者たちは奮い立つのである。神を超えた! と。
自分たちは魔法を使った。催眠術をかけた。たった、このちいさな言葉で。
ちいさなくくりを人間の意識に信じ込ませただけで、意のままにコントロールした。
言葉という波動で、神を封じ込んだ。
波動の魔力で<性>を押え込んだ。
不安の波動をから抽出した、いくつかの言葉で、神を操り、その目的を修正した。
そう言って彼らは杯(さかずき)を交わしているのである。
<性>への眼差しは、つまりわれわれが何者かを知ることである。それを知れば、くだんの支配者にたいしても、ゲームをよりおもしろくしている人たちなんだなあとしか見えなくなるし、将棋のアマチュア6級くらいのもんだと思えるのではないか。ちょっと目を覚ませば、バカバカしいゲームに付き合わされていたことが見えてくるし、男女の性がやはり最もエキサティングで神聖で、<性>に直結していて、それをじゃまするやつは、馬に蹴られて死んじまえであって、なんか春のポカポカした日和(ひより)のような気分の中で恋がしたいと思う今日この頃である。
さて、今回は予告通り『<性>について宇宙意識から聞いたこと』を書いて行くことにする。
この意識は、自分のことをサンと名乗ったと思う。それでネットを調べてみると、前里光秀さんという人がこれをチャネリングしていることがわかった。それと同一の存在なのかは定かでない。だいたいかれらは自分の名前にこだわっていないし、こちらが波動を読み分けて同一か異なるのかを見極めなくてはならない。前に私が書き始めて、最後の2回が下書きのままになっている『夢から醒めた夢』に出てくる宇宙人は、どうもリラ系のベガ人ではないかと見当をつけているが、これも定かではない。共通して言えることは、どちらにしろ日頃自分では考えつかないことを、そして真偽がわからないことを教えてくれるということである。正直、よく理解できないことも多い。地球の科学で言われていることとは違うので戸惑いもする。けれども心の奥底では、知っている。納得しているという感覚を得ているのだ。
私が知っていることをつらつら書いて行く。まず、イントロダクションのようなところからであるが、現在、地球の周辺には常時1000くらいの異星人がいるということだ。入れ替わり立ち代わりで、のべにするともっと多い。その中でガイアの許可を得て地球人と直接おおっぴらに交流している宇宙人はいくつかしかない。そのひとつがサンだそうだ。
これは集合意識という形態ををとっているので、ひとつの存在であるが<私たち>という言い方をする。通常は個別にある意識を融合させてひとつの存在にしているのだという。このことは、私たち自身にも言える。私たちの主体という袋の中にはいくつもの意識体があり、仮にそれを12個とすると、その12個の中にも12個、その中にも12個といったふうに無限の意識体があるのである。まるで曼荼羅模様である。そして私という主体の意識が向上すると、その周波数と同調する意識体が前に出てくるというか、それと交信するようになるというわけなのだ。よく言うガイドとか守護霊というのは、そういうカラクリで私たちと共にあるのかもしれない。
地球にはこっそり入って来ている不法侵入者も黙認されている。もし本当に許されていないなら、決して入ることはできない。
人間が住むことを許していること自体、ガイアがいかに寛大で慈悲深いか。それ以上のたとえば4次元と言われているレベルの存在たち、レプテリアンだのイルミナティだのドラコニアなどは、当然住むことができるレベルにあるのである。人間の暗い想念が創り出した魔界、幽界などにも自然それにふさわしい存在たちが宇宙からやってきて住み着くのである。
そしてかれらもすべて機能してきた。目的のレベルに応じて、もし人間を中心にするならかれらは全て私たちを助けてきたのである。戦争に駆り立て、金融恐慌を引き起こし、オイルを牛耳り、原発で脅し、人間が霊性に気づかぬよう洗脳して奴隷化してきた者たちも、とりあえずここまで物質文明を発展させてきたのである。その是非は問えないが、霊的にも科学的にも発展して両者が足並みを揃えた時に初めてもっと上の在り方が開花するのであろう。と見なすのが次元上昇であって、やられていたのを気づいたからと攻撃したり、自分もよその未開の星に行ってやりかえそうとするのは深刻な遠回りなのだ。しかしそれも自由な選択である。5次元6次元の認識に到達した人やその人たちの創る集合意識にはイルミナティたちの画策は侵入してこない。そしてまた、より高次の存在たちのもたらす知恵や仕切りによって、レプテリアンもイルミナティも出口の方に案内されているのである。「お帰りはあちらです」と慇懃に礼と感謝を捧げられているのだ。ちょっと高級な悪役がいなくなりつつある今、ニコちゃん大王風な蓮っ葉な存在が入って来ているようだが、これは安い押し売りみたいなものなので微笑ましく眺めていればよい。
サンに限らず、地球を訪れるより高度な存在たちが口を揃えて言うのは、地球人は眠りこけている、夢遊病患者の集まりだ。ということである。忘却した目的をあまりにも忘れ過ぎている。意図して忘却したことを忘却しているというのである。それゆえにこれまでも詩人や覚醒者によって歴史的に真理が伝えられてきたが、だいたいが蹂躙され抹殺されてきた。これからの時代は、信者が観念として信じているというやり方ではなく、真理を思い出している人が集合しているという状態になる。常に思い出し続けられるように常に誰かが思い出している。思い出しては忘れ、忘れては思い出して、誰かが忘れても誰かが思い出しているという状態の交流を続けることで、全体としては常にあるレベルの真理を思い出している状態にある。真理とは、霊性の物理学であって、例えばネットを通して交流することで、眠っている意識には高度だがなんということもない普通のことを共有する文化を創っていくのである。
サンは地球人にたいする教師としては新参者である。ほんのここ数年で数万年の歴史を調査し、知性の程度、科学の発達度などを把握した。地球人と交流するに当たって、まずかれらは言葉を学習した。
たとえば<分離した私>という意味を表している「あなた」という言葉の周波数は、「私たち」というよりも低いが「あんた」より高いといったふうだ。アネゴ肌の女が「ねえ、あんた」と自分の情夫に呼びかけるときと正式な取引の場でビジネスマンが「あんた、なにいっての?」と怒って言う時ではもちろん周波数がちがう。それらをすべてーーすべてなのだ。ランダム抽出ではない。現在、そしてこの数千年の間に発せられた「あなた」をすべてサンプリングし、すべての周波数を測定してグラフ化する。「あなた」がこの数年ではどんな周波数で使用されたかを「あんた」と比較してあるいは「私たち」と比較して、言葉の意味を知るのである。
「あなたたち」と言うより「あなたがた」と言う方が周波数が高い。そこには敬意というニュアンスが含まれているからだ。「You」には、発話の仕方でしかそのニュアンスを含めることができない。
地球の中でも比較的めざめている人は、相手のことを「お主」と呼び合っている。「お前」とか「貴様」が当てている字面の意味に反して周波数が低いことをグラフは示す。このグラフは、平面的な正規分布表ではなく、立体の山型のものである。
「拙者」は「私」より己を低めているようだが、実は己に対する敬意があったことを示していたのが、その言葉が煩雑に使われていた時代とは異なる時代に生きている私には驚きであった。したがって「せっしゃはーー」と発話している侍には、自分が好き、みたいなニュアンスがあったのである。しかも品格を表現する高い周波数を有していた。
そしてかれらがどうやって私たち日本人と意思疎通するかといえば、たとえば『みなさんは眠っています』と伝えたい時、<みなさん><は><眠って><います>という順番に<324ヘルツ><100ヘルツ><369ヘルツ><500ヘルツ>の周波数を送り込んでくるのだ。すると私が<あなたがた><は><眠りこけて><いる>と自分の中でその周波数に最も近い言葉に変換するのである。参考までに英語の語順なら<みなさん><は><状態です><眠りの>となるのかと思ったら、これもまた<You><are><sleep><ing>と並ぶのである。ユ・アー・スリープ・イングとまるでロボットみたいなつなぎ合わせの発音になるのはそのためだ。
そすしてまた、眠っているという言い方は比喩的に使っているかと思ったら、そうではなく、文字通り眠っているのである。私たちはこうして3次元物理世界で活動している時、目覚めていると思っている。しかしこれが眠った状態なのだ。バリバリに忙しくて、わさわさと理性をフル回転させてバタバタしている時ほど、眠っている、自力でなんとか事態を打破しようと頑張っている時ほど、眠っているのだそうだ。そしてまた、(めんどくさいなあ)と思って日がななにもしないで願いのかなった空想にばかりふけっているのもまた眠っているのである。これには酔生夢死とかいう言葉があった。
ところでこの、めんどくさい、と思って腰が重いのは、とても複雑な精神状態にあるのらしい。最高に忙しい状態なのだそうだ。そしてさらに、めんどくさいと思ってはいけないからすぐやらなくちゃとか、ああまためんどくさいと思ってしまったとかいうのがさらに複雑さをこじらせている状態なのだそうだ。それをさらに他人に強いてやらせようとするのは余計にこじれている。
話が逸れた。ともかく、伝達するには、かれらの伝えたい内容を概念化し、さらに周波数に直し、それをモールス信号のようなパルスにして順次送り出す。それを受け取った私なりチャネラーがそれを自分の中で最も近い言葉に変換しているのである。
もっとおおがかりにやるときには、集合意識となったひとまとまりの存在の中に『通訳者』をまぜておく。そして科学的なことを伝えようとする場合、科学者が意を抱くと、それを通訳者が的確な周波数にコンバートし、発信する。人間でもそうだが、このコンバーティングのセンスのある者がいるのである。そしてこの作業は、かれらの持つ知性的なコンピュターではなく、高度な知覚のある人格霊が行なった方が効果的だと言うのである。それは、的確さという点で微妙なセンスのともなう作業だからだ。対話者の放ついくつかの周波数の混合した意を正確にとらえ、正確に翻訳して科学者に伝え、それを受けた科学者がユーモアとウイットに富んだ周波数をまじえて返す場合、人間の同時通訳のように外国語をしゃべっているその様は見えないので、笑っているのか怒っているのか、それをまるでコンバーターの存在がないかのように通すには個性としての才能があるというのである。
で、やっと<性>の話に行くのである。私は、宇宙をつくった根源の存在は<創造の神>だと思っていた。ところがどうやらそのとらえかたは物理的であるようだ。
前に私はスピリチュアルの要諦は<ユニティ>と<セクシャリティ>にあると書いた。ある朝目が覚めるとそのことを知っていた。<一体性>と<創造性>が基本だと。その統合した状態が男性性と女性性の融和なので、性行為は両方を同時に経験する神聖な経験というのが納得いく、と思っていた。
たしかにそれはその通りなのだが、<一体性>と<創造性>は、どこから生まれたか。それが<性>だと言うのである。つまり<一体>性であり、<創造>性である。一体とか創造という概念も<性から>生まれた、というよりそこにはすべてがある。一体も創造も<性>にあったと表現するのが正確である。
<男>性、<女>性。たしかに両者には<性>の(問題が)ある。
ふたつの<性>は一体化して愛の結晶である子供を創り生み出す。おおもとの<性>あるいは大いなる<性>と同じことをやっている。
<性>行為とは、<性>に戻りまた<性>から自己(によく似た存在)を増殖させる創造的な活動と言えるのではないか。
私はフロイトの熱心な研究者ではない。したがって専門家にはおしかりを受けることだろうが、かれの提唱していた<リビドー>はこのことを指していたのではないか。
それは表面的には、いわゆる性行為や射精欲として熱望される性欲としてみえるかもしれない。しかしもっと深く探っていけば、<創造>すら内包している<生命の本源>、エネルギーとさえ呼べない、あらゆる状態の有る<無>と言えるのかもしれない。<存在>と表現するしかない存在。それが<性>なのであろう。
個<性>はその<性>から分化し、<性>のエッセンスすべてを有しながらもどれかを特徴的に持ってる存在である。
個性を発揮した個が集まることで<性>により近い意識存在に戻るのである。
こうなった時の創造的なパワーは計り知れないのであろう。
私たちひとりひとりがやっていることは、食うために仕方なく職業に従事することではなく、個の才能を引き出し、進化させていくことのだ。すでに誰もがそうしている。気づいているか、忘れてそれとは異なった限定的な定義の中で独善的な行為をやっているはずだと見なしているかのちがいである。
<性>とは、性質というより全てを意味していると解釈した方が正確のようだ。
生、聖、精、正・・・あるいは星、静、清。これらは<性>の一側面だけをとらえた同音異義語であるが、その本意にせまれば必ずその対義語も含んでいる。
ともかく<性>は、すべて有る無、おおいなるすべてというものである。
したがって可能<性>とは、<性>が可能だと言っているのである。すべて可能だ、なんでもできる、と。
創造<性>とは、<性>すら創造し得ると言っているのだ。
<性>は自分で創造を内包し(生み出し)それが自分自身を創造するのも可能なのである。
私たち個<性>も、その創造性を発揮して自分自身を新たに創り出すことが可能なのである。いかようにもなるのだ。たしかに地球だけでも、われわれは人間のあらゆる多様性を見ている。歴史的にもそうだ。ヒトラーからキリストまで、富士山麓の腐海の白骨からビルゲイツまで。宇宙規模ならさらに壮大なスケールでその実践を発見するであろう。自分もそうなれるのである。そうなることを自分に許しさえすれば。したがって、なにを自分に許しているかが人格の差異なのである。
以前、前里氏が『可能性を哲学する』という題名の動画を聴いたことがあるが、その時にはよく分からなかった。それがいまはよく分かっている。よもや彼の言わんとすることとは異なるかもしれない。けれども、私のハートは腑に落ちて知っている。
ところでフロイトはトートとして知られるエジプトの神の姿が好きだったようだ。通常は、トキの頭をしているトートはヒヒの姿もしていたという。トキは知性、ヒヒは本能(リビドー)を表していた。両者が同時にあったトートを愛するというのは、どのレベルから観ても人間の本性を的確にとらえていたのであろうと推測される。
フロイトと言えば、アインシュタインとの往復書簡を読んでから、あまりの認識の低さにこれが世界的に有名な学者かとうんざりしたおぼえがある。ふたりは戦争についての意見を交わしていたのであるが、『人間には攻撃本能があり、戦争をやめるにはその衝動を内側に向ければいい』などと言っていたので、この人はふたつの点で人間に対する認識が狭いと思ったものだ。動物にある攻撃本能はエゴではなく、種の保存にきいているのであり、人間の攻撃衝動は本能というより霊的な覚醒度の浅さによるものであり、その衝動を内面に向けたところでいや向けるからこそ他者に向かって攻撃するのではないか、とちょっと怒りをともなっていたのだった。
彼のもとを訪れる病的な状態の者ばかり観ていたら、彼のような結論になるのかもしれないが、まず生物学者は動物にたいする観察眼が狭い。低く見なしている。いまだにローレンツを信じている。弱肉強食などというのが単なる見方のひとつでしかなく、それがどんなにセンチなものであるか、科学どころかへたくそなポエムと等しいのである。しかも人間を観察するために、動物を低く見なした上で観察し、その成果を人間に当てはめる。これがいかにおかしな方法論であるか、いまだに気がつかない。
人間はすべて信念(霊的な認識=焦点を当てている周波数)によって行動している。『山月記』ではあるまいし、気づいたら前後不覚になって目の前のウサギを食べてましたということはない。人間には、いわゆる本能ではなく、自覚の程度の差によって行動の差があるのである。一般化してとらえることはできないのではないかと思う。もし普遍的なことを言おうと思えば、信念=霊的な認識=焦点を当てている周波数と言動の結果生じることの観点から調査し直した方が賢明であると思う。
ヒヒは<性>を表す象徴としてあったのではないか。そしてトキが知<性>を表している。<性>を知る。それが知性、あるいは知恵、叡智というものであろう。
その叡智は『エメラルドタブレット』に書き残してある。
<性>を知る者、トートによって。
さて、支配者足らんとする者たちは、みなこぞって人間の性欲に目をつけた。
これは通常にみられる性欲、射精欲である。マントにシガレットを入れたい、シガレットをマントに入れたい。そういう衝動である。これが<性>に直結していることを見て取るのである。どんなに盛んか、すぐに知るのだ。これをコントロールすることが、<性>という万能の能力を押え込む手っ取り早い方法だとすぐにわかる。
第一に、さまざまな戒律を作り出す。
そして第二に、あらゆる射精産業を促進させる。
性欲は創造性とも等しいので、ありとあらゆる方法が考案される。それらは夜に行なわれる。
抑圧の方法が、禁止と奨励にあることを見抜かなくては成らない。禁止にばかり目を向けて反抗し、逆に解放と称して促進奨励をするのは、支配者の片棒をかついでやっているようなものだ。しかも無償で。最大のボランティアが極めて限定された意味においてのフリーセックスの奨励である。これは宇宙の常識である高度なフリーセックスを否定する結論を導く。そこにエイズとかなんとか人工的につくられた病気をあてこんでくれば人々が<性>に恐れをなすのは目に見えているというわけだ。
フロイトのもとを訪れていた臨床患者たちは、性行為に対してあれこれと狭い観念を与えられ<性>に対するゆがんだ信念を構築した人々だったのではないか。すると喜びとしてストレートに発揮されず、暗い周波数を伴う思考や感情をつくりだし、また引き込み、そのエネルギーが発露できずにぐるぐると駆け巡る。個人の中と社会の中を。
<性>すなわち神を支配した!
と支配者たちは奮い立つのである。神を超えた! と。
自分たちは魔法を使った。催眠術をかけた。たった、このちいさな言葉で。
ちいさなくくりを人間の意識に信じ込ませただけで、意のままにコントロールした。
言葉という波動で、神を封じ込んだ。
波動の魔力で<性>を押え込んだ。
不安の波動をから抽出した、いくつかの言葉で、神を操り、その目的を修正した。
そう言って彼らは杯(さかずき)を交わしているのである。
<性>への眼差しは、つまりわれわれが何者かを知ることである。それを知れば、くだんの支配者にたいしても、ゲームをよりおもしろくしている人たちなんだなあとしか見えなくなるし、将棋のアマチュア6級くらいのもんだと思えるのではないか。ちょっと目を覚ませば、バカバカしいゲームに付き合わされていたことが見えてくるし、男女の性がやはり最もエキサティングで神聖で、<性>に直結していて、それをじゃまするやつは、馬に蹴られて死んじまえであって、なんか春のポカポカした日和(ひより)のような気分の中で恋がしたいと思う今日この頃である。

