本心は、いつでも愛だ。

その波動を的確に読み取り、最高の側面と同調する。それ波動が自分にそぐわないネガティビティしかないなら、中和するか補完する。強力で、斬新な発想と行動をする。いつもハートにそれは観じられるものだ。

一方、本音は、妄想だ。

低い波動を誘発する<観念>というボタンを押す行為だ。ちいさく狭い限定された<枠組み>によって、自分の好む、低い波動の快楽を発動させる。ある部分を囲い込むと言い替えてもよい。ぼぉわっと理性(脳)の周囲に陰気に煙る。愚痴、嫉妬、猜疑、嫌悪・・・。本音とは、たいていそんなものだろう? 愚図愚図している。


想像は、愛からして予想される真実であるように思う。

思うとは、ハートだ。責任をもってそれしかない。今現在自分が選んでいる意識の周波数だ。

他方、妄想には責任がない。

いつでも自分は被害者であるし、依存症である。疎外感があり、弱々しい。忘却であり、無知だ。自分が創造者であることを放棄できると考えている。眠りこけた意識から造り出される、ありきたりの悲観、架空の話、暗い予測。


2元論ではない。


目覚め度のちがいだ。両者を分け隔てるラインはない。

宇宙にはマイナスがない。1から始まって0で終わって循環している。

1である自分を、0である自分を限りなく忘れていようとする試みが、妄想であり、本音なのだ。

0の中にすべてがあり、そのどこに焦点をあてているかを観察しているのが私という神の存在なのだ。

概念を統合することは実は不可能だ。

内なる0をまるで外から観察しているような状態に在る時、概念が統合されたようになるのである。

あらゆる概念は概念として存在し、両者あるいは数者を化合したり融合させたりすることはできない。

ただただ、それらがどういうものか、どんな周波数かを如実に観察しえた時、統合している状態に在るので在る。

そこはいつでも愛すなわち本心であるのだ。