こういうことを知っていました。


それまでの私は、変わる気のない人に無理強いすることはない、とそう主張しておりました。実際それはほとんど宇宙の法則であるくらい絶対的なもので、この宇宙や各次元を創った<おおいなるすべて>でさえも、決して立ち入ることのできない、不可侵の領域が私たちひとりひとりにはあると信じていました。他者の主体性すなわち自由意志は本人以外が変えることができない、と。これは、日常の常識としても知られていることです。「本人の自覚がないと」と半ば呆れたような覚ったような言い方で時々ひとが口にするのを聞いてきました。<ここに駐車してはいけません>と禁止の看板を何枚出しても駐車がたえないのを嘆いて「けっきょくはあ本人の自覚がないと」などとため息まじりにつぶやいたりします。禁止したからこそ違反駐車が増えるのですが、その問題は、ひとまずここではおいておきましょう。


ともかく私も、その気のない他人をどんなに説得しても変えることはできないし、変えてもいけないと信じておりました。他者の選んでいる自己(の周波数)を許可なくいじることは人権侵害にもあたる、と他者の選択を一番に尊重しておりました。ところが実は、ーーこれもあくまで不可侵ではあるのですが、方法はあるのです。


周波数を低める方法はいくらでもありますね。不安を煽りさえすればいいのです。これはあらゆる場面で日常繰り広げられていますから特に珍しいことでもない。新聞、ラジオ、ネット、雑誌、テレビ・・・、他人のうわさ話、疑心暗鬼、否定的な決めつけ・・・。いくらでもあります。それに同調し受け入れれば、そんな気がしてきて、そんな現実感を実体であるかのように見なすことでしょう。結局は本人が選んだのですが、私はこの作用にくみするつもりはありません。そのような世界に住処(すみ)たい方はどうぞと思います。


むずかしいのは逆のことです。他人の周波数をあげる時です。けれどもこれには方法があるというのです。そして実はすでに誰もがやっていることなのです。それは無意識の感受性を活用して行なわれています。ますます恐ろしいのは、それがネガティブな感情を誘発するのにも使われているということです。しかしその意図に気がついた時、ウエっと吐き気がするような感覚をおぼえるかもしれません。


私たちの体の前に、グリッドというか光でできたネットがあると想像してください格子状の網が全身を覆っているところを思い浮かべてもいいかもしれません。人によって編み目の大きさが異なります。粗い人もあれば細かい人もあるでしょう。にぶい人は粗く、勘の鋭い人は細かいかもしれません。一般に粗いひとほど、人生に悩みのたうち回りもがいているかもしれません。他人の言うことを頭から疑ってかかり、どんなことでも自分に被害をもたらすものだと信じている人ほど他者の話を聞かず、独り善がりな哲学を正当化し続けては嘆き悲しんでいることでしょう。


さて、こんな人に会った時、どうにかしてあげたいと思うのは人情かもしれません。当人も本心では、どうにか変わりたいと訴えているのかもしれません。それを感じたとき、見捨てるわけにはいかない、知らんぷりはできない、そう思うかもしれません。


こんな時、愛の想いから出た優しく精妙な、いや神妙な光の粒子を野球のボールくらいにして相手のネットにそっと付けておけというのです。まるで蛍(ほたる)が笹の葉にとまって静かに光っているように。こうするとお節介ではないと。「はい、あなた、顔が暗いですよ。私がお手かざしをしてたちどころになおしてしんぜよう」などとずいずい目の前に出てきてこれみよがしにうーんとうなるのではなく、そっと覚られぬよう相手の脇にでもつけておくのです。


そうすると、それはずっとゆらゆらとまるで毛糸のボンボンみたいにそのあたりについていて、本人がその気になった時にじわっとしみわたるのだそうです。ほんとかうそか分かりません。なぜだか、そういうことを知っていたのです。いつのまにか知っていました。私も誰かにそっと光の玉を付けられていたのかもしれません。けれど振り返ってみれば、他人を自分の意のままにしたいからと言って、言葉巧みに誘導したり、あるいは言葉と言葉の間に悪意をしのばせていたりしたことがあります。なるべく誠実であろうと思っていても、エゴが働いていて、私に都合の好い結論を出させようと、黒い闇の塊を相手のグリッドに、それも眼につくように胸のまんまえになすりつけていたことがあります。まんまと騙された、とほくそ笑む誰かが私の中にいたこともあります。けれども反対にこれをなされていたことに気がついた時、いやあーな気分になって相手が嫌いになります。


そうすると誠心誠意で相手に接し、もしエゴが働いてやっていたことに気がついたなら、その時点で誠心誠意陳謝することを心がけておくのが正道であることが知れるのです。




そしてもうひとつ、相手を変える方法は、自分を変えることです。これは全てが自分だと見なすことを当然とすることからなされます。相手に見えている人物は自分だと見なすなら、自分がここで変われば相手も変わっている、変わったバージョンの相手を観ることになるということです。なぜそういうことになるのかと言えば、自分の周波数を変えると、上げましょう、上げると、私と相手を含む<自分>という概念すべての周波数が上がるのです。そうすると上がった相手を観ることになります。上がった相手はいままでのような振る舞いをしないかもしれません。そうすると憎むことも嫌うこともなくなるのです。


まず私の周波数を上げる。上げるには、自分の存在の尊さを認める。すべての存在が神の子であると心底認める。そういった誰でもが知っている神聖な在り方をするだけのことです。感謝という状態にある。彼が在るから我が在る。その妙に畏れ入っている。そういう境地は特に修行を積まずともいつでも思い出せるものです。すぐ忘れるので古来ひとびとは修行を積んだのであって、思い出していると設定すれば思い出し続けていられるのが新時代なのではないでしょうか。思い出している状態にある私とは、実はいつもは忘れていて、思い出すと選んだ時にいつでも思い出す状態なのかもしれません。


そのような神聖な境地になった私は、<自分>の周波数をあげていますから、同じ<自分>である相手も周波数のあがった相手になります。ひとつの大きな<自分>にいる相手は、まるで私の手を見るようです。しかも私も、相手を神の子と見なしていますから、憎んだり嫌ったりしないというわけです。これはパラレルリアレィティにシフトした、つまり高周波のリアリティにいる私と相手という関係として説明することができるでしょう。どんな方法にしろ、他者のレベルを上げたければ、私の次元を上げるということなのです。したがって逆も成り立ちます。他者のレベルを下げたければ、自分のレベルを下げるということです。


気づかぬ内に他人から恨みをかっていた。自分に正直に生きていたいと望むあまり、あまりに得手勝手な理屈に陥り周囲をないがしろにしていた。現代ではそんな過剰な自由もあり得ますから。そんな時、その恨みの波動を振り払ったり、手放しても無駄だと思います。恨みをかうことをした自分を正直に認めて己の周波数を上げた時、恨まれていないステージに在る私に移行するのであって、手放せば済むと考えるのはあまりにも安易ではないでしょうか? 言ったことは言ったこと。やったことはやったこと。それが生み出す結果を直視しなければならない。もし他者の反応が逆恨みだと思うなら、誠実に弁明することでしょう。


スターダムにのし上がりたい、こんなに努力しているのに少しも浮かばれない。たいした才能もない知り合いがチヤホヤされているのが許せない。敵視して足を引っ張って引きずり降ろし、その後釜に私がつきたい、そう欲する人もあるかもしれません。もし、そんな願いをもつ人が他者のレベルを下げるなら、自分のレベルも下がったリアリティにシフトすることになるのでしょう。そこは確かにいまいましいライバルが浮かばれていない世界かもしれない。けれども、私ももっと浮かばれていない世界なのはまちがいない。別の誰かがスポットライトを浴びているのが許せなくて、ギリギリと奥歯を噛みしめている。足を引っ張る相手が違うだけの世界。もっと多くのライバルの足を引っ張ろうと算段しているにがにがしい私のいる世界。そんな私のいる世界に行くことを<人を呪わば穴ふたつ>というのでしょうか。


他人を引きずりおろす暇があったら、自分がその道で楽しんでやっていればいいのではないでしょうか? 浮かばれようが浮かばれまいが、自分は楽しんでいる。人生を愛している。それで十分なのではないかと私は思います。


とにもかくにも、光子の玉をひとのグリッドにつけておくというアイディアを知った私は、それを実行しようかと思う前に、これまでもたくさんの光の玉をつけてもらっていたことに気がついたのでした。誰ともなく、私に愛を思い出させてくださった方々に深い感謝の念を覚え意宣(いの)らざるを得なくなりました。ありがとうございます。