愛の中の恋が強調されて、(芽生えるという表現をされますが)愛を知る。自分が愛であることを知る。そうすると、恋は役目を終える。そういうことかもしれません。でも、なくなったわけではない。ふと、そんなことを思ったもので・・・。それだけです。
(この記事は3月9日に書いたことへの補足として書き始めたことです。その後、別のアイディアが浮かんできたので、それを先に載せていたら今になりました)
ところで、僕に読書の習慣がついたのは、高校1年16歳のころからだったと思います。入試に失敗して通い始めた高校の生徒の間にただよう荒廃した雰囲気や諦め感、そしてそういう生徒を心の底から小馬鹿にし、あざけっている教師たち、規則でがんじがらめにしなければどうにも管理できないと考えている経営陣。そんな濁流のうねりに入り込んで溺れそうになる自分をどうにかして脱出しなければならないと思ってのことでした。
さっさと退学すればすむことだったのかもしれません。けれど、この状況の中でこそ学び覚ることが他の社会に意気揚々として進むことができるのではないか、そんな意固地な積極性によってそこに踏みとどまっていたと思います。不思議と一度も辞めようとは思いませんでした。その学校のあらゆる面を憎んでいました。もちろん、救いとなる<物の分かった教師>もいましたし、憧れの女生徒もいました。そういった人たちを砂漠のオアシスのように見なしながら、僕は本を読むようになりました。
あの年頃は物事を深刻に捉える傾向にあるのかもしれません。けれども、自分がこんな境遇になった原因に気がつかない限り、またどこかでそこに落ち込むかもわからない。そんな思いがあったのです。おあつらえむきに、そういう時に手を伸ばすのが文学であるかもしれません。当然のごとくに太宰治も読みました。けれども、どうにも好きになれません。そしてどうせならあの時期に読んでおけばよかった『パンドラの匣』や『正義と微笑』などには行き着かず、なんだかただただ暗い作品にだけ同調しては、自分の信念との葛藤を経験しては思索にふけっていました。
人に紹介されて読んだ『青春の門』も、いつまでも答えを出さない主人公にうんざりして望郷編で読むのをやめました。もちろん、この小説を書いたころの五木寛之にしてみれば、安易に答えを出さず、自分自身が本気で体当たりしていく中でもっと深淵な真実を見いだしていくというのが信念であり、主張でもあったのでしょう。かれの奥底に吉川英治と同じように『歎異抄』があるのを感じ取ったのは、ずっと後のことでした。親鸞にかぎらず仏教の要諦を知るには、波動の世界を想像できるということであると思います。
それはさておき、それから大学に入ったのですが、学生寮にひとへやあてがわれ、僕はそこで当時5回生のMさんという法学部の学生と知り合いになります。この人は、僕の隣の隣の隣の隣あたりに住んでいる人でしたが、まさに牛乳瓶の底のような眼鏡をかけ、坊主頭で下駄をはいていました。まだ入学したばかりの僕には大学に5年もいる人間がもう不思議な存在にしか見えませんでした。しかもそんな出(い)で立ちをしている上に、方言丸出しで話をするので、お笑い関係の方かとかんちがいするほどでした。
寮の共同トイレには、誰がやったのかわかりませんが、すべての金隠しに紙が貼ってあったりしました。そこにフランス語の単語がひとつずつ書いてあるのです。きっと用を足す度に覚えようという腹づもりだったのでしょう、調理場のガラス戸にも何枚も貼ってあり、お陰で履修もしていないフランス語を憶えてしまいそうになったほどです。
そしてMさんの部屋に入れてもらったとき、僕は驚愕しました。部屋には本棚しかなかったからです。すったもんだあった挙げ句、新寮計画は実行され、(学生が徒党を組まないように個別化するという全共闘の反省から国家が取った学生の管理体制のひとつ)鉄筋コンクリートの建物の床はリノリウム張りでまるで病院みたいな部屋だったのですが、そこにずらっと20基ほどの白いスチール製の本棚が並んでいて、どの棚にも満タンの本が詰められていたのです。部屋の奥の窓の横にはスチイール製のデスクが置いてあり、かれはそこで勉強をしているようでした。寝るのは、談話室の共同の布団だそうで、かれの部屋はまったく図書館と化していたのでした。
「これ、ぜんぶ読んだんですか?」
と僕は聞きました。かれは方言丸出しで、
「いやあ、読んどらん」
と答えました。僕はアトランダムに本を引き出してパラパラとページをめくりました。すると、必ずどの本にも線が引いてあり、同じ人のであろう筆跡があるではありませんか。
「読んでるじゃないですか」
「いやあ、読んでも読んでも、なんにもわからなんからなあ」
照れくさそうにMさんは頭をかきました。
僕はもういちど部屋中の本棚を見回しました。自分の部屋をこんなふうにしようという発想がどこからわいたのか、ともかくかれはすべて自腹で数百万円分の本を購入していたのでした。なおもまじまじと本棚をながめながら、僕は、最低ここまではできるのだ、と素直にインプットされたのでした。
図書館というのはたいていの学校にはあるものですが、大学には地下図書館があるという点で高校までと異なるでしょう。上には2階までしかなかった図書室が地下には確か5階くらいあったと思います。エレベーターまでありました。許可をとってそこに潜るのが僕は好きでした。一般には出回らない書物がてんこ盛りで並べてあったり、まだ未整理の書籍や紀要などがまだ段ボールに入ったままになっていたり山積みになって放置されていたりしました。まさに別世界に迷い込んだような気分になったものでした。
松下幸之助の書き残したあらゆる文章がずらっとあったり、ぜったいに復刊しないであろう本がなんの差別もされずに隣り合わせにあったりして、歴史の歴史を俯瞰しているような爽快感がありました。そうしてみると、かつて焚書という歴史的な事件は本当にもったいないことだと思いました。
未整理の紀要とか論文が段ボールに入ったままになっていたり、床に散乱していたりしていました。おそらく何十年もです。このあたりが国立大学のアバウトさで、そこがまた雑多な知識を得る余地だったのですが、僕はそこで『国立教育研究所紀要』とかいう冊子を見つけました。もとから旧制高校のことを知りたかったので幸運でした。それには、大学が新制に移行した当初の高校時の成績と大学教養部との比較などがされていました。もちろんこんな研究にありがちな、データは立派だが結論はお粗末というパタンは踏襲されていましたが、第7集は『進学適性検査の妥当性の研究』であり、それには進適の点数と各大学入学者の平均点数などが載せられており、なかなか興味深いものがありました。進学適性検査(SAT)というのは、いまのセンター試験みたいなもので、占領に体制にあった当時の日本が親分アメリカから導入した知能検査のことです。(昭和22から30まで実施)
そのころから僕は月に1万円分の本を買うと決めました。当時、僕は5万円の仕送りをしてもらっていました。このお金は母親が毎日朝から晩までミシンを踏んで、一枚何十円だかの半纏を縫って稼いでいたものです。作業場には綿毛(わたげ)が舞って息苦しかったと思います。読むかどうかはわかりません。けれども、そうやって自分を本に向けさせようとしていたのです。なんの興味がなくても、とにかく1万円分の本を買うのです。あとで読むかもしれないとさえ思わず、なにかに役立てようとさえ思わず、目に留まった本を買うわけです。でも、まだこれでは手ぬるい。ぱっと目に留まった、古本屋の床にこづんである平積みタワーの一番上にある本の下にたまたまあった本まで一緒に買うわけです。興味のおもむくままに読んでいくというラインもあります。けれども、それでは自分の常識を破れないのです。いつも同じ読み方をしていることにさえ、同じ結論を出していることにさえ気がつかない。それではとうてい学問をしているとは言いがたい。自分の正義を固めていったって仕方がないわけです。むしろ、それを打ち破って普遍性を秘めていながらも自分の独自性をもっていなければやる意味がないと思っていたからでした。その頃の僕はいまにも増して、永遠の真理を我が物にしようなどと壮大な夢を描いておりましたので、気分はゲーテかパスカルか、周囲の苦笑を買うくらい高邁でありました。
読む本も話す相手も、とにかく自分と違えば違うだけ善いという考えがありましたので、聞いたこともない考えを書いてある本、まったく納得できない本を好んで読んでおりました。ただしょうもないことをなにを言っているのかさっぱりわからない文体を駆使して書いている著者、(たとえば蓮實重彦とか)キリスト教的常識がわからないならわからないだろうと思われる西洋の哲学書を読みふけっておりました。(ハーバマスだのヴィットゲンシュタインだの)
5高の寮歌の中には<武夫原頭に書を抱いて 鳴かず飛ばすにここ暫し>というくだりがありますが、もう気分は、あすの国家を担う旧制高校生で、わけもわからず乱読多読、ときに精読をして破天荒な理屈を展開していたものでした。そういえば、山田洋次に『ダウンタウンヒーローズ』という映画がありましたが(原作は早坂暁の小説)、あの中に登場する柳葉敏郎演じるオンケルさんみたいに、恋さえ理屈で語る、何百枚かの馬糞紙に理屈を展開したラブレターを送らんばかりの勢いでした。読めば読むほど遠ざかる。まさに鳴かず飛ばずの毎日で、けれども自意識だけは孤高で、いつか目覚めてやるのだという陽気な希望があったものです。
そのうち自分の家に図書室を作るんだと思っていました。読んだ本で埋め尽くした部屋を設けて、家族が誰でも閲覧できるようにミニ図書館を作るほど読むんだと意気込んでいました。実際、ある時期僕の部屋はこづんだ本だらけになったことがあります。そこはまるで古本屋の倉庫のように未分類の本の山ができていました。天井にまで届きそうでした。その本をながめながら、僕はいっぴきの蟻だなと思いました。これは自分の内面を掘り下げていってそこから外に出した土の一粒ひとつぶが、まるで蟻の巣の周辺にある小山のようでありました。
本の虫を書淫といってあざけるむきもあるでしょう。それに読書の限界もあります。行動と体験が共なっていることも、この世に生きる上では看過できないことです。けれども、自分の見方を破っていかなければ、<しょせん人生はこんなもの>という感慨を強めて行くばかりのように思うのです。なにをやってもなにを見ても、いつも同じことだけが観えて、いつも同じ不穏なことが起きていると決めつけて終わってしまうのではないでしょうか。それは信念が変わらないからです。いちど信じ込んだことは変えることができないという信念があるからです。それを自分でガタガタに揺るがし、その隙間にそれまで観えなかったことを観る観点を挟み込まずしてどうして視野が拡大するというのでしょう。いまの自分とは異なる周波数を放つ意識体の書いた物、理性では太刀打ちできない思想を書いた物、そういった世界観に触れ、時には自分が破壊されたような気分にもなりながらその周波数が自分にもあることを認めていく。他者を容認していくプロセス。それは忍耐という喜びかもしれません。
そうしていくと革命的に自分の認識が飛躍する瞬間がやってきます。より高い周波数を出すのです。すると、それに同調する本や人と眼が合うようになります。実は、けれども、赤ちゃんは最高に高い周波数を放っているかもしれません。愛を振りまき、愛させ、愛を頂いている。それを忘れ、他者を知ることから堕落が始まるのかもしれません。本を読むのも堕落の一途でしょう。中途半端に読めば。けれども、もういちど赤ちゃんに戻るまで読み、なにも考えずに行動し、愛を振りまき、愛させ、愛を頂いている。という状態になる時が来るのかもしれません。すべてが自己だと思い出すのです。すべてが自己の多様な姿、すなわち構造主義のいうバリエーションだという実感。それが今世なのか来世なのか、百世くらい後なのかは選択次第でしょう。いやすでに百世前に到達して今世はそうしたい者の水先案内をやっているかもわかりません。
大学入学当初にMさんに出会ったのは幸運でした。個人でもここまでできることを目の当たりにしたからです。教授の研究室に行っても感動しませんでした。あれは、予算が少ないとぶーたれながら公費で買って読みもせず、学生のためと恩着せがましくそろえてあるだけだからです。自腹で買えば読まずに積んでおいても効果があります。もちろん、公費に感謝して購入している人は別の経験をしていることでしょう。
人生讃歌。
僕は読書に限らず、この世での経験のすべてがそれだと思うのです。義務でもなんでもなく、おのずからわいてくる念。あらゆる生命論はそれが出発点だと思います。人生を讃歌してこその謳歌。ペシミックの権化のようなショーペンハウエルにさえ、僕はそれを読み取ります。
