小学校にあがったかあがらなかったかの頃、誰だったか忘れたが年上の女の人に「はい、これ。あげる」と一枚の写真を渡された。

見ると、私が写っていた。

私はその女の人の顔を見た。かのじょはまだ下を向いて写真をくっていて、選り分けているようだった。なんでこんなものをくれるのだろうと思った。

もういちど写真を見ると、私がひとりなにかしているところが写っていた。写真をもらうのは始めてだった。それまでは父親が撮ったものを見る以外なかった。

「どうしてこれをくれるの?」

と私は聞いた。

女の人は不思議そうな表情をしたが、当然といったかんじで答えた。

「あなたが写っているから」

ますます解らなくなった。どうして、僕の写っている写真を僕にくれるのか。私は、自分以外の人の写っている写真がいい、と思った。自分の顔はいつでも鏡で見られる。けれど、友達のはそうではない。

その女の人といくらかやりとりを交わすと、どうやら写真とはそういうものらしい。本人の写っているのを渡すのが習わしなのだと。

胸に違和感を覚えながらも、そんなものかと納得しその写真は頂くことにした。

どうやら人間というものは、自分が気になり、誰よりも自分が好きな生き物らしい、とこの時知ったのだ。

いまでも私は自分の写っている写真を好まない。他の人が持っているのならまだしも、自分のアルバムにいれておくなどしたくもない。

だいたい私は、なぜか昔から自分の姿が残っているのがあまり好きではないのである。

椎名林檎さんに言わせると、『写真に撮っちゃえば、わたしが古くなるじゃない』ということなのだけれど、私の自意識は、どうも姿を残すのが嫌いのようである。

私は自分の肖像は、顔かたちではなく、人知れず至った境地であろうと思っている。


ラフカディオ・ハーンという人は、いつも真横から撮った顔で写っている。

明治期の写真をみるとおもしろい。

皆が思い思いの格好や向きで写っていて、ある人は右を向き、ある人は左を向き、まるでチグハグな顔の向きや体の向きで写っているから、いろんなところから集めて来た写真を切って貼ったようになったのがある。

きっと写真を撮るのは一生に一度だったから各々が最高のポーズをすることになっていたのだろう。

まあそんな歴史的自意識の現れとして、自分の写真が残るのもいいかと思ったりする。