神は乗り越えられる試練しか与えない。
という見方がある。が、これさえも手ぬるいのではないかと思えて来た。まだまだ感傷的だ、とさえ。
神は、いまの私にとって最高のことしか贈らない。
もう、確信を超えて、当たり前にそうだと知っている。知っていることを思い出している時には、なんの不安もないし、その知識に素直にしたがって行動ができる。
私は、いま自分にもたらされたのが神からの最高のプレゼントだという観察以外はない。と言い切る。私がそのことを忘れない限り。
私たちが神で作られているなら、ーー宇宙にはその材料しかないからーー、私たち全員がかけがえのない唯一無二の存在で、可愛い可愛い神の子供たちなのだ。であれば、神が辛辣な仕打ちや冷酷な報復をするはずがない。
神がそんなことをするものと信じ切った人間が、自らのつくりだした神の代行をしているだけなのだ。そしてその一人上手さえもプレゼントである。なぜなら、その機に私が何者であるかを選ぶことができるから。恐れをなしたら、それに恐れをなす観念をにぎっていることを知るし、堂々としていられるなら、少なくともこう在ると自覚した自分で在れたのだ。その人あるいはその場面に対して、自分が何者であるかを表現し経験することができた。これが神の最高の贈り物なのだ。否定的な意味での試練などなく、すべての機会が本当の私とはこうだと宣言し、経験して知る尊い時機である。これこそが<わたしを含む神>のわたしに贈ったプレゼントである。もういちど、本当の私が何者かを創り出すチャンスが与えられたのだ。
わたしを創った<私を含む神>は、どの子にも平等に、その子の望む現実をプレゼントしている。
いつもいつも最高のことしか起きていない。心からそう思う。
そのことが喜べずして、一体全体なにを喜ぶというのか。
配られた1枚のカードがスペードの10であった。これを嘆き悲しむことがあろうか。次に配られたカードはスペードのキングだった。ああ、ワンペアさえできない。あなたはいちいち一喜一憂するかもしれない。次は、ダイヤの4だった。もうだめだ、ピンチだ。そう思うのが人情だ。けれどまだ配り終わってさえない。ここでゲームを放棄するのか? その次はスペードのクイーン。次は同じくエース。バラバラだ。これではワンペアをそろえるのがやっとだ。もう破滅だ。すべての財産を失う。いつもの癖であなたはそう思う。
ここで見方を変えることができるか。フラッシュ。あるいはロイヤル・ストレート・フラッシュに持ち込めると思えるかどうか。
そんなこと簡単だ。端から見ている者には、当然のことに思いえる。ところがプレーヤの心理はまるでちがう。プレーヤーはゲームを楽しむことを忘れて、いかに得をするか、持っている物を失わずに済ませられるかという観念だけが頭を支配している。
一枚一枚のカードにはなんの意味もない。
初めに配られたスペードの10は、どんな役の一部にさえなるのである。であればこのカードは、常に最高。そう観えているか。
しかもカードは引き放題、替え放題なのだ。そう観えているか。
どんなカードが配られてきても、常にリッチな手役にもっていくことができる。そう観えているか。
これが余裕。遊び。レクレーション(再創造)。超越した観察者。ニコちゃんマーク。
イエスは、あの磷つけの時こそ、本当の自分を示せたのだ。その前に一瞬だけ、神の配剤を疑った。けれどもすぐに思し召しだと覚った。この時こそ、世界に、そして未来に真理を伝えるというおのが使命をまっとうし得ると。イエスがキリストになった瞬間なのだ。試練というものがあるとすれば、無知忘却と叡智とのギャップのことだ。
命の使い方。命の示し方。死に方。
出来事の上に乗れ。カードの上に乗れ。配剤をまだげ。
手持ちのカードの中から最善を。などというセコい考え方はするな。
その出来事の前で、これが本当の自分ですと高らかに謳え。
という見方がある。が、これさえも手ぬるいのではないかと思えて来た。まだまだ感傷的だ、とさえ。
神は、いまの私にとって最高のことしか贈らない。
もう、確信を超えて、当たり前にそうだと知っている。知っていることを思い出している時には、なんの不安もないし、その知識に素直にしたがって行動ができる。
私は、いま自分にもたらされたのが神からの最高のプレゼントだという観察以外はない。と言い切る。私がそのことを忘れない限り。
私たちが神で作られているなら、ーー宇宙にはその材料しかないからーー、私たち全員がかけがえのない唯一無二の存在で、可愛い可愛い神の子供たちなのだ。であれば、神が辛辣な仕打ちや冷酷な報復をするはずがない。
神がそんなことをするものと信じ切った人間が、自らのつくりだした神の代行をしているだけなのだ。そしてその一人上手さえもプレゼントである。なぜなら、その機に私が何者であるかを選ぶことができるから。恐れをなしたら、それに恐れをなす観念をにぎっていることを知るし、堂々としていられるなら、少なくともこう在ると自覚した自分で在れたのだ。その人あるいはその場面に対して、自分が何者であるかを表現し経験することができた。これが神の最高の贈り物なのだ。否定的な意味での試練などなく、すべての機会が本当の私とはこうだと宣言し、経験して知る尊い時機である。これこそが<わたしを含む神>のわたしに贈ったプレゼントである。もういちど、本当の私が何者かを創り出すチャンスが与えられたのだ。
わたしを創った<私を含む神>は、どの子にも平等に、その子の望む現実をプレゼントしている。
いつもいつも最高のことしか起きていない。心からそう思う。
そのことが喜べずして、一体全体なにを喜ぶというのか。
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配られた1枚のカードがスペードの10であった。これを嘆き悲しむことがあろうか。次に配られたカードはスペードのキングだった。ああ、ワンペアさえできない。あなたはいちいち一喜一憂するかもしれない。次は、ダイヤの4だった。もうだめだ、ピンチだ。そう思うのが人情だ。けれどまだ配り終わってさえない。ここでゲームを放棄するのか? その次はスペードのクイーン。次は同じくエース。バラバラだ。これではワンペアをそろえるのがやっとだ。もう破滅だ。すべての財産を失う。いつもの癖であなたはそう思う。
ここで見方を変えることができるか。フラッシュ。あるいはロイヤル・ストレート・フラッシュに持ち込めると思えるかどうか。
そんなこと簡単だ。端から見ている者には、当然のことに思いえる。ところがプレーヤの心理はまるでちがう。プレーヤーはゲームを楽しむことを忘れて、いかに得をするか、持っている物を失わずに済ませられるかという観念だけが頭を支配している。
一枚一枚のカードにはなんの意味もない。
初めに配られたスペードの10は、どんな役の一部にさえなるのである。であればこのカードは、常に最高。そう観えているか。
しかもカードは引き放題、替え放題なのだ。そう観えているか。
どんなカードが配られてきても、常にリッチな手役にもっていくことができる。そう観えているか。
これが余裕。遊び。レクレーション(再創造)。超越した観察者。ニコちゃんマーク。
イエスは、あの磷つけの時こそ、本当の自分を示せたのだ。その前に一瞬だけ、神の配剤を疑った。けれどもすぐに思し召しだと覚った。この時こそ、世界に、そして未来に真理を伝えるというおのが使命をまっとうし得ると。イエスがキリストになった瞬間なのだ。試練というものがあるとすれば、無知忘却と叡智とのギャップのことだ。
命の使い方。命の示し方。死に方。
出来事の上に乗れ。カードの上に乗れ。配剤をまだげ。
手持ちのカードの中から最善を。などというセコい考え方はするな。
その出来事の前で、これが本当の自分ですと高らかに謳え。
