つい、おとといのことです。椅子に腰掛けて、ふと、ある観念を想起しました。意図したかどうか微妙なところでしたが、そうするとそれの作りだす感情がわいてきたのです。(それはちょっぴり不安を共なっていました)
けれども、それは自分の内部で感じられるというより、ふわっと浮いてすっぽり覆い被さるように私の体を包んだのです。厚さ15センチくらいでしょうか、視るところ透明なクラゲのようなものでした。もちろん目には見えません。そうなっている自分を想像している時の観え方に近い映像があったのです。これが霊視というものなら、初めて自覚した体験でした。
そこでまず私が思ったのは、この感情は当座のもので、私そのものではないんだな、ということでした。私にあるのは、こうして観ている私であって、感情を感じている私は、いまのところ<これが私だ>としている私のものだと思ったのです。では、そう思う私はなんらかの観念や信念によって思わされていないのか、という問いが出てくるのですが、ただその状態をかんじている私というのは、在る、ようです。
しばらくそんなことを感じながら、私をまとっている感情を味わっていたのですが、飽きたので、取り出した観念をひっこめました。すると、その感情も諸共に消えたのです。
きっとこのことは誰もが知っていることだと思いました。けれども今回自分にとって新しかったのは、みえた、という感覚と共に自分の感情を客観的に自覚しえたことです。なるほど、と思いました。あることに対して自分のしている定義を変えれば、それによって創出される感情が変わるのだ、というのは本当なのだ。
では私はどんな感情を味わいたいのか。無理矢理にではなく、責任と共に。その日はそこまで思って終わりにしていました。けれども、もう25年も前になりますが、私は感情に乏しかったのを思い出したのです。冷酷だ、感動にとぼしい。冷淡だ。そんなことを言われていたし、自分でもそう思っていました。泣きもしないが笑いもしない。そのくせ、どこかで怒りっぽかった。いわゆる人情というものに疎かったのです。
そんな性格破綻で極端な私の若い頃のことはともかく、そのせいで、私は物事をなにかと観察する習慣があった。それで益々、他人が「どうして事情がわかってくれないんだ」とか「もっとかまってください」とか「私の感情をわかってください」といったことが理解できず、<これはこうなっているから、こうしたらいい>とばかり思っていたのです。
個人個人の感情が邪魔臭いとも思いませんでした。「なんだわかったふうな口ばかり聞いて」と年配の人にたしなめられても、まるで意に介せず、一直線に<これはこうなっているから、こうしたらいい>というのをなぜ理解しないかな、と首をかしげるばかりでした。
これは後で、<これはこうなっている。どう在るかが問題だ>に変わったのですが、感情に振り回されたり、ストップをかけられるのが理解できなかったし、かといって理性に特化した大学の教授のようなのも全く論外に思えていました。要するに、ごちゃごちゃ考えをこねくり回して評論したり、不安とか卑下みたいなのに基づいた観念によって創り出した感情にどっぷり浸かっていない時、人は観察者になるのだと思うのです。
そんな観方をしていましたから、どこの国の人と話しても、違和感を覚えたことはありませんでした。文化や習慣がちがうということは目に入らないのです。男も女も感情は同じものを使っているように思います。各々の性性によって、あるいは社会体な集合的価値観のちがいによって、しがちな定義が異なるので、感情の発露の仕方がちがってくるのかもしれませんが、感情自体は同じものです。
<これはこうなっている。どう在るかが問題だ>という認識である対象は、自分自身になりました。それも前からあった感覚なのですが、他人がどうで在るかより、自分がどうで在るかを見直すために質問したり、意見をしたりしている、と思っていました。誰かが自分の見方を表明すると「それ、どういうこと?」と質問するのです。相手はうっとなって、自分に異を唱えるのか、否定されるのか、と構えたりするのですが、「いや。自分の問題を考えるために、聞いている。だから、もっと詳しく教えてくれ」と言っていました。これについては、相手の信念を読むことでいちいち質問しなくてよくなってきたのですが、相変わらず、自分自身に対しては、より深く、より微細に分かっていくということを課しています、というよりそれしかすることがないのです。よりなりたい自分を創造していくには。
個人的感情は、おもしろいものですよ。同じ感情を使い多種多様な場面で表現することでキャラクターやパーソナリティを形成している。ただちょっと気をつけておいた方がいいと思うのは、恨みとか憎しみの時ですね、あまりにこれが個人のものでしかないということを忘れると、相手を滅ぼすのが正義にしか思えなくなる。これらの感情は狭い定義によって創られていますから、否定性が強く、我を忘れるという状態になりがちです。
忘我というのは、一方、しかし喜びとか感謝とかそういう状態の時にも経験されることに思います。その時には、体の表面を覆うような感じではなく、心の底からあふれてくるように感じている私があります。それは、むしろ容認性が強く、すべてが溶けた一体性にいて個人が消えているような状態かもしれません。
否定性は、本当の私を忘れている時、容認性はエゴを忘れている時、と言えるかもしれません。そのどちらの私も在ります。プレーヤーとしての私もあります。現在の私というフィルムの一コマにいる私が見ている周囲の状況。利害や都合のよい結果にに一喜一憂している私。あるいは、パラレルリアリティや多次元を俯瞰して観ている私。どれもあります。これは語弊があるかもしれませんが、プレーヤーの私は、実験動物だと言えるでしょう。この定義、観念、信念でプレーしている私に出てくる結果を観察している私とペアあるいはチームを組んで私を創っている。
そして、こうして自分の経験をまるで他人事のようにしたためている時の私は、観察者の観察者なのでしょう。
自分の経験を見つめている一個の観察者である<私>。そして、一個の観察者である<私>を観察してるもっと大きな<私>。どうやら<私>の本体はそのへんに在るようだな、と思うようになった、感情のクラゲ体験でした。
