僕は闇を闇とは思わない。


<未光>だと思う。


闇は光と対比して、2元論的に正反対で悪いとか劣っているとは観えず、光予備軍、あるいは光になる可能性のある光を光り足らしめる影(光)だと思っている。つまり、闇は光の一部、ボリュームの、ある位置にすぎない、そんなふうに観える。


だいたい、パッと宇宙を見た時、光はわずかしかない。ほとんどが闇で埋め尽くされている。あの大部分の暗いところは、ダークマターとかダークエネルギーと呼ばれている、何物かだ。


おそらく人間社会もそうなのだろう。


そういうものだと認めると、闇だらけの社会や個人が、単にそういうものと観えてくる。単にそういう社会、単にそういう人。そして、それらは自分にどんな素敵な贈り物をしてくれるのだろう、と思うようになる。暗いものは暗いし、闇なのは闇だ。好きとか嫌いとか、そんなものを超えて、ただそうであるだけだ。好きでも嫌いでもいい。どちらにしろ、自分になんらかの贈り物をしている。していないものはない。必ずしている。宇宙には必ず、何か在るからだ。


もちろん、光と闇は相容れない。なぜか? ボリュームも小音量と大音量は同時に経験できないのと同じだ。けれど、大音量は、小音量も含んでいることを知っている。小音量は、大音量ではないがボリュームをあげればそうなることを知っている。だから、「大音量なんてたいしたことはない」と小音量は付け加えるのだ。その通りなのだ、なろうと思えば誰だってなれる。しかし、この「なろうと思えば誰だってなれる」ということを忘れていると嫉妬を創り出して複雑になっていく。それにさらに卑下とか恨みとかまで付け足して益々複雑怪奇にしてしまっているだけのことなのだ。本質は、誰でもなれる。このことは、誰もが知っている。できないのではない、しないだけだ。中国の故事にもあったかと思う。不為也、非不能也。あたわざるにあらず、なさざるなり。


そして自分が相対的に光になるのを選んだなら、周囲の闇や自分のせいで作り出す影が愛おしく思えないか。一方、闇にしてみれば、光はうざいだろう。そう観えるのが闇だからだ。闇であることを選んでいる者には光がまぶしくて憎しみぶかい。そして影にしてみれば、光は妬みの対象だろう。おまえのせいでオレに日が当たらないと、ひがむだろう。それが影を選んだ者の観え方だからだ。光を、より輝いていくことを自ら選んだ者は、ーーちょっと話がそれるが、周波数のことを、<もの>と表現することがある。これは意外にも『ライ麦畑でつかまえて』の中でも主人公がつべこべ言って伝えようとしていることなのだが、この<もの>に、日本語では者と物という字を当てて区別しているが、それの放っている波動のことだ。者は主に人格霊に使われ、物は非人格霊に使われているように思う。人を物のように扱うべきでないのと同じで、物も物として扱うべきではないのは、どれも意識があるからだ。つまり、神というか諸元の波動の周波数のちがいによって、表現形がちがっているだけだと見なすからだ。こんな視点で読むと「世の中そんなものだよ」という文章は、世間とはそういった周波数で構成されているのだ、という意味になるでしょう? つまり世間の集合意識はそういう波動を放っているということだ。


もとにもどる。光を自ら選んだ者は、闇や影は暗いと分かる。けれども、それが批判すべき対象どころか、ありがたいと思うだろう。しかし、ありがとう、あなたがいてくれるお陰で、私は自分が光であることが明確になります、と面と向かって言えば、いやみな奴ということになるから、言わず、心の中で感謝することになる。もし闇が光を見て、自信を失い、いじけてしまっているなら、「あなたにも光になることはできます。今すぐにでも」と言って、そのことを思い出させるように促すことはするかもしれない。けれども、忘れているだけで、ーー忘れることによって故意に闇である経験をずっぽしやっているのだから、いつでも変わることができることは知っている。知ってはいるが、どうしても忘れていたい人にまで無理に教えることはしないだろう。


光は光れば光るだけ、光る。それが宇宙の性質だからだ。闇も影も光だ。暗いものを自分よりはまだ明るいことを分からせるために、より暗くなる。


私たちのしているのは、自分が光になったり闇になったりすることではない。


実のところ、何がどうなっているか、観ているのだ。


それがわたしたちの本質で、とりあえず、物理次元で自分はこの程度の光(影)であるという形を取っているだけなのだ。


最も意識を拡大した状態である<私>も存在している。


意識を拡大していくとは、<私>は、パラレルリアリティにもいるし、過去世未来世も今ここにあると観えるし、多次元に存在していると普通に認められるという状態なのだ。


そして最も相対化した<私>の視点は、絶対の世界がどうなっているか観察しているものである。それは、非常に超越した視点であるが、誰にでもある。


絶対の世界にいると、絶対の世界が分からない。つまり、自分が何物(者)か分からない。そこで<私>を相対化させて、時間や空間やプロセスを創り出し、何がどうなっているかを観察できるようにしたのである。


私たちの本性は、絶対の観察者なのだ。そのことに気づいた人は古来たくさんいる。


すなわち、私たちは何かをするものではなく、どう観察しているものかであるのだ。


3次元も4次元も5次元も6次元も、どう観察しているものかの違いにすぎない。観え方のちがいがあるだけだ。


在り方のちがいが観え方のちがいを創り出す。どこにいるかが、観え方のちがいを創り出す。どの周波数でいるかが観え方のちがいを創り出す。


絶対の世界から観れば、何がどうなっているかにしか興味がなく、誰がどう在るかは、どうでもいいのだ。好きに選んで経験できるようになっているだけである。なにが起きようが、どうでもいい。ただ、<私>は存在している。それが意識される意識であって、それ以外にはない。宇宙が破壊されたとしても、<私>は<私>として存在し続け、存在し続ける。<私>は、宇宙というボディの消失を経験したにすぎない。ある種、死を経験したのだ。そうなるのは、意識の状態がどうなった時かを知っただけなのだ。<私>は次のゲームを始めるだろう。より永久に動き続ける宇宙を創り出すゲームを。


そう思うと、結局の所、自分がどんなゲームをするのを望むかということになる。


勝者か敗者か、賢明か愚鈍か、覚醒か盲目か・・・・。あらゆる在り方が選び放題なのだ。


転落か上昇か、上昇か横滑りか、転落か横滑りか・・・。あらゆる在り方が選び放題なのだ。


どれもこれも、絶対の世界から観察している<私>は、どう在ればそう成るか知っている。たいていの場合、知っていることを忘れているだけだ。少なくとも顕在意識にあがってきていないにすぎない。


たとえば、豊かに成るには豊かに在ることだと知る。豊かに在るとはどう在ることか、ということを知ったとしても、自分の大部分である潜在意識がこれまでのソコソコの状態を選んだままなら、顕在意識はそれに従う。だから、テクニックが要るのだ。潜在意識を自分の選ぼうとしている周波数になるような方便がいるのだ。


つまり、マントラを唱えるとか、なんの躊躇もなく高い服を買うとか、高級ホテルに泊まったり、そのラウンジで高価な珈琲を飲むとか、芸術家集団のたまり場にいりびたるとか・・・。そうしている内に、潜在意識がその気になるのである。これは自分の90%以上を占めた意識だから、効果は絶大だ。


顕在意識の抵抗とか、集合意識の足の引っぱりとかを超えて、自分の望むように自分を変えることができる。


逆もある。大金持ちだった人が、急に貧乏になった時も、それに見合ったみすぼらしい自意識になれば、品もなくなりすっかり貧乏人が板に付くことだろう。


未光ということから、こんなところまで来た。


私は、いま恵まれない不遇な人をかわいそうとは思わない。


私は、次回の受賞者は、今回の落選者の中から出てくると思っている。


私は、現在評価されない挑戦は、未来に評価される普通のことに思える。


慰めやおためごかしではなく、もし本人がその結果を生じさせるに見合った意識を選んでいるなら、自然なことだと思う。


けれど、いまスポットを浴びていない人をあざけり、批判し、未来永劫だめだと見なす見なし方も認めている。それは、闇を選択した者の見方であって、それもなければプロセスがプロセス足りえないのだ。


闇の中から、選択を変えた一点が光り出すということが現象的に観察できないのである。


闇を忌み嫌い、厭(いと)うのは、光になりたがっている闇かもしれない。光は、絶対の世界から何がどうなっているかを観察し、選んで光り得たものではないか。もしそうなら、闇を悪くは言わないだろう。




いまのあなたは、光ですか闇ですか、それとも双方を観察するものですか?