このごろ僕があまり物を食べないのは、満たされ感が強いからじゃないかな。目の前にうまそうなケーキがある。でも、手が伸びない。よほど決心しない限り、なんだ。食ったらうまいし、作った人への最大の賞賛を贈る。でも、これを食べて喜ぶ人が他にいるなら、その人にどうぞという気がする。他人を押しのけてでも我が物にしなければならないとは思わない。
いやむしろ、僕は受け取ってもらいたいと思って生き始めているかもしれない。このハートにある愛を、誰か受け取ってくださいと切実に願っているふしがあるんだ。これだって、みんながみんなもらいたいという代物ではない。しかもそれが必ずしもよさげな顔をしているのだけをえり好みするとはかぎらないときている。くさやの干物みたいな愛がお好みのお仁だっているものだ。
とにもかくにも、この頃の僕は愛を受け取ってくれるひとを探しているような状態になっていて、ハート・トゥ・ハートで話ができる人と話したいという衝動がうづいているようになっている。どんなに僕のことを憎んで敵愾心を燃やしている人にでも、面と向かって話したら、やっぱり愛を受け取ってもらえるチャンスじゃないかという気がするんだ。もらってくれる人がいないと、どんどん入ってきてどうしようもなくなるから、受け取ってくれるだけでもありがたくて仕方ない。
そういうわけで、僕はあまり物を体に入れなくなった。不足感や満たされない感じを埋め合わせようとして、食物で代用しなくてもよくなった。いや、食欲はあるし、空腹感だってちゃんと感じる。でも、食べなくても満足している。といっても、食べる。食べて、自然の恵みのありがたさや作ってくれた人の笑顔や材料に加工してくれた人たちの喜びと共感しているようなかんじなんだ。これは、もうひとつの欲についても同じことが言える。
この3ヶ月で、おそらく15キロちかく痩せた。10年以上お蔵入りしていたズボンがすべて入った。履けなくなっていたズボンが復活するのは、買い足すことなく豊かになったのではないかと思う。満足感はさらなる満足感を生む。だから、それは生命なのだろうと思わないわけにはいかないんだ。ダイエットは苦しみが伴うことが多いかもしれないし、我慢や忍耐を強いられる側面が強い。でも、満足感は満足感しか連れて来ない。
ではこの満足感は初めにどうやって得るのかという話になるのだけれど、僕の場合、ほとんど遊び半分というか信用していなかったけれども、でも本気で、いままでの100兆倍の愛が入って来ることを許す、なんてニコニコしながら何回も唱えていた。そしたら、長年望んでいたことが次々に起きてきて、それがとても愛に満ちあふれていて満足感を得ることができたというか、自分が愛で満たされていることを発見したんだな。
そしたら、奪おうとか埋め合わせようとかそういう発想がどこかに行っちゃって、とにかく出したい、伝えたい、受け取ってもらいたい、というそんな思いの方が強くなってきたんだ。でも、あまりに急速にハートが満たされてきたんで、苦しくなって痛くなって、それまでいかに自分が心を狭くしていたのか同時に思い知ったというわけなんだ。
それでも、一時期僕が経験していた恍惚感と言ったら、なかった。世界中が平和にみえたもの。世界中がピンク色で、なにが起きたって余裕で接せられるくらいに思えていた。まあ、そんなのはある種の幻想みたいなものかもしれない。そのあと一気に奈落の底に落ちるような経験もあった。でもそれもやっぱり幻想だった。同じみるなら、どちらの幻想をみるのかって話なのかもしれない。
もし、もっとスリムになりたいと思う人がいたなら、何キロやせるとか、カロリー計算をしながら食事をするとかより、自分のハートが愛で満たされるのを許します、と宣言した方が効果的なのかもしれません。たぶんそうすると、他のことも、例えばお金とか仕事とか恋とか、そういうこともドンドン満足するようになっていくんじゃないかと思うんだ。
いま僕はごはんのひとくちひとくちがうまくて仕方がない。満足しているから、満足するような料理や味付けをするし、食べ応えもあるんじゃないかと思う。そして少量で満足するから、大して太らない、どころか最適な体型になっていくように思う。そうなってみると、以前太っていてなかなか痩せなかったころに自分の合わせていた意識が自分を創っていたことがよくわかる。
まあでも、四六時中不足感を覚えてため息をついたり、努力しても痩せないという経験も貴重なものだとおもうから、そういうのに飽いたら、このスーパーなやり方に取り組んでもいいかもしれない。お金がかからないどころか、むしろ食量費に使えなくなる。その金は、より品質の高い、無添加の自然なもの、店の主人の心意気のこもった材料を買うのに回せるので、さらに満足感が高くなると、そういうわけなんだ。
いやむしろ、僕は受け取ってもらいたいと思って生き始めているかもしれない。このハートにある愛を、誰か受け取ってくださいと切実に願っているふしがあるんだ。これだって、みんながみんなもらいたいという代物ではない。しかもそれが必ずしもよさげな顔をしているのだけをえり好みするとはかぎらないときている。くさやの干物みたいな愛がお好みのお仁だっているものだ。
とにもかくにも、この頃の僕は愛を受け取ってくれるひとを探しているような状態になっていて、ハート・トゥ・ハートで話ができる人と話したいという衝動がうづいているようになっている。どんなに僕のことを憎んで敵愾心を燃やしている人にでも、面と向かって話したら、やっぱり愛を受け取ってもらえるチャンスじゃないかという気がするんだ。もらってくれる人がいないと、どんどん入ってきてどうしようもなくなるから、受け取ってくれるだけでもありがたくて仕方ない。
そういうわけで、僕はあまり物を体に入れなくなった。不足感や満たされない感じを埋め合わせようとして、食物で代用しなくてもよくなった。いや、食欲はあるし、空腹感だってちゃんと感じる。でも、食べなくても満足している。といっても、食べる。食べて、自然の恵みのありがたさや作ってくれた人の笑顔や材料に加工してくれた人たちの喜びと共感しているようなかんじなんだ。これは、もうひとつの欲についても同じことが言える。
この3ヶ月で、おそらく15キロちかく痩せた。10年以上お蔵入りしていたズボンがすべて入った。履けなくなっていたズボンが復活するのは、買い足すことなく豊かになったのではないかと思う。満足感はさらなる満足感を生む。だから、それは生命なのだろうと思わないわけにはいかないんだ。ダイエットは苦しみが伴うことが多いかもしれないし、我慢や忍耐を強いられる側面が強い。でも、満足感は満足感しか連れて来ない。
ではこの満足感は初めにどうやって得るのかという話になるのだけれど、僕の場合、ほとんど遊び半分というか信用していなかったけれども、でも本気で、いままでの100兆倍の愛が入って来ることを許す、なんてニコニコしながら何回も唱えていた。そしたら、長年望んでいたことが次々に起きてきて、それがとても愛に満ちあふれていて満足感を得ることができたというか、自分が愛で満たされていることを発見したんだな。
そしたら、奪おうとか埋め合わせようとかそういう発想がどこかに行っちゃって、とにかく出したい、伝えたい、受け取ってもらいたい、というそんな思いの方が強くなってきたんだ。でも、あまりに急速にハートが満たされてきたんで、苦しくなって痛くなって、それまでいかに自分が心を狭くしていたのか同時に思い知ったというわけなんだ。
それでも、一時期僕が経験していた恍惚感と言ったら、なかった。世界中が平和にみえたもの。世界中がピンク色で、なにが起きたって余裕で接せられるくらいに思えていた。まあ、そんなのはある種の幻想みたいなものかもしれない。そのあと一気に奈落の底に落ちるような経験もあった。でもそれもやっぱり幻想だった。同じみるなら、どちらの幻想をみるのかって話なのかもしれない。
もし、もっとスリムになりたいと思う人がいたなら、何キロやせるとか、カロリー計算をしながら食事をするとかより、自分のハートが愛で満たされるのを許します、と宣言した方が効果的なのかもしれません。たぶんそうすると、他のことも、例えばお金とか仕事とか恋とか、そういうこともドンドン満足するようになっていくんじゃないかと思うんだ。
いま僕はごはんのひとくちひとくちがうまくて仕方がない。満足しているから、満足するような料理や味付けをするし、食べ応えもあるんじゃないかと思う。そして少量で満足するから、大して太らない、どころか最適な体型になっていくように思う。そうなってみると、以前太っていてなかなか痩せなかったころに自分の合わせていた意識が自分を創っていたことがよくわかる。
まあでも、四六時中不足感を覚えてため息をついたり、努力しても痩せないという経験も貴重なものだとおもうから、そういうのに飽いたら、このスーパーなやり方に取り組んでもいいかもしれない。お金がかからないどころか、むしろ食量費に使えなくなる。その金は、より品質の高い、無添加の自然なもの、店の主人の心意気のこもった材料を買うのに回せるので、さらに満足感が高くなると、そういうわけなんだ。
