前にわたしは、自分の胸には曼荼羅模様を描く球体があるようだと言いました。それはまるで球(たま)のような、たまであるらしい、従ってたましいと呼ばれている得体の知れないものではないかと思っています。それは大霊と極小霊の交叉する矛盾点なのではないかと想像しています。これが上下するとも言いました。上の方にある時は、溶け込んでわたしと一体化しどこにあるか分からなくなり、下の方、みぞおちあたりにある時は、ずしんとした不安感があります。その中間では、喜びとも悲しみともつかないものを感じています。このことは、みなさん誰しも経験されていることと思います。ただ、わたしの場合、ひょんなことから、たましいの位置と気持ちが一致していることをより明確な形で体験的に知るようになったというだけのことです。


どうやら球体の位置によって、わたしの今の状態を示しているようなのです。もちろん、これは自覚的に動かすことができます。本当は、ぜんぶ自分でやっているのでしょう。けれども、事態や言葉に反応して、観念が作動し自動的に自分の気分や状態を創り出してもいるようです。まさに、受け身的な表現、<be surprised at~>ですね。(受け身形なのに、能動的な表現ということです)よほど自分に不都合であると認めない限り、この自動操縦はそのままになるのですが、今日わたしが伝えたいことは、わたしの今の状態すなわち放ち、また受け取っている周波数とパラレルリアリティについてなのです。


わたしたちは、自分の状態によって外側に見えたこと、あるいは波動に意味を与えます。例えば、冬の寒い時の焚き火はホッと安心感をおぼえ、ありがたいことだ、善いことだと結論づけるかもしれません。子供だけがいる焚き火はゾッと不安感をおぼえ、どうしたことだ、悪いことだと結論づけるかもしれません。また、気分の昂揚している時には、誰かのやっていることが頼もしい、素晴らしいことだとみえるかもしれませんし、沈んでいる時は、人を騙そうとしてやっている、他人から搾取して金儲けしていると決めつけるかもしれません。相手の意図は不安にあればあるほど不明ですから、勝手な意味をつけられるわけです。気分でさえそうなのですから、固い観念に縛り付いている人は、いつもある一定の周波数で物事に意味を与えているのです。<他人を見たら、泥棒と思え>とか<かれも人なり、われも人なり>とか。いつも同じように物事をみて、同じ現実を経験しているのでしょう。


そのことはともかくとして、わたしは自分のたましいの上り下がりに着目しながら、ある談話の席にいました。もちろん、相手も様々な周波数で話をされていることでしょう。けれども、わたしがたましいと一体になっている状態すなわち無心にあるときは、相手の話の意図が素直に感じられるのです。そして精妙に分かるのです。なにをおっしゃっているのか、精確に理解できるのです。ところが、ひとたびたましいが下方に行くと、なにかの拍子にぽんと下に行ったのですが、そうすると途端に何を言っているのか解らなくなってくるのです。わけのわからないことを言い連ねて言いくるめようとしているのではないかという疑念や不信感がわいてきました。これは正確にはどちらが先か、おそらくは同時にチェンジしているのでしょう。不安という状態にわたしがなったからたましいは下におり、それゆえに疑念や不信感という言葉で表現される周波数を放った、とそういうわけかもしれません。


わたしが無心にあるとき、相手の話は素晴らしく納得のいくものです。それはきっと、そういう次元のリアリティにわたしがいるということと等しいのではないか。そこにいるから、相手の話はスムーズで次元が高く、多くの気づきをもたらし、知的な興奮を覚えさせ、自分はまさに生きるにふさわしい所に生きている、そんな確信を超えた宇宙の中心にいるのです。ところが、こんどは不安な状態にわたしがあるとき、その周波数に見合った次元のリアリティにわたしはいて、相手がなにを言っているのかまるで理解ができず、つまらなく、もうそんなことは聞き飽きたと怒り、さっさとこの場を立ち去りたい、いや奈落の底にでも突き落とされたようなれっきとした実感までわいてくるのです。


わかりやすいように、無心と不安の2元的に申し述べましたが、実のところもっと微細にわたしの周波数はシフトし続けているのでしょう。オシロスコープで視覚化すれば、あがったりさがったりギザギザを刻んだり、一定の直線を保ったり、そうなっているのが見えるのにちがいありません。そしてその度にわたしはその周波数に応じた現実に移行しているのかもしれないのです。だとするならば、わたしが同じ相手と会話を交わした2時間は、まるで連続したなんの齟齬もない一本の映画のように思えるあの時間は、まるでビデオの編集作業を経たつぎはぎだらけの支離滅裂な辻褄の合わないドラマのような代物だったと言えるのではないでしょうか。そのドラマを見終わったわたしは、その感想などを述べたりします。まるで完全に他人によって作られた客体視可能なパッケージに対して、わたしが絶対的な傍観者であったかのような態度で。


ところが多次元やパラレルリアリティの視点で観れば、この2時間のドラマは完全にわたしが創り出しているのではないかと思うのです。わたしはシナリオライターで、わたしは監督で、わたしは演出家で、わたしは主人公で、わたしは共演者に要望をだし、わたしは音響で、わたしは照明なのです。わたしのドラマに誰をキャスティングするか、どんなテーマでそれを進行させるか、すべてわたしが決めているのです。なぜなら、そうしたいからです。それが自分だと思うからです。恋におちて苦しむのも、その苦しみが喜びだからです。問題を設定して悩むのも、その悩みが喜びだからです。そうしたいのです。そうしたいのです。そうすることを選んでいるからです。そうできる相手を選び、テーマを選び、無邪気に遊んでいるのです。まったく嫌でもなければ、やめたくもない、積極的にその中に飛び込んでいるのです。だから、解決策なんて要りません。必要ないのです。

あなたが無心に在る時、それでも相手から鬱屈した波動を感じることはないのか、という問いもあるでしょう。それはあります。しかし、このごろではそういう人とは不思議と出会わないし、話すこともありません。何も考えなければ素晴らしいアイディアを創出させてくれる人としか会いません。目にしません。もし、ちょっとでもネガティブな観念に自縛されて浮遊しているような方に接すれば、わたしはスッとその場を立ち去ります。そして、そういう方の考え方が自分からわいてきそうになったら、ああ、いまの自分は波動が落ちているな、と知る試金石として使います。が、わたしは、そういう方と楽しいダンスを踊りません。これは、はっきりしています。よほどのことがあって逆説的な目的でもあって一時的にモチベーションをさげるのでもないのなら、否定的で狭隘な物の見方を押し付けて歩いている方にはオシロスコープもなにもありません。こういう時にわたしは頑強なまでにわざわざ自分の周波数を下げて、相手と一緒になって他人や社会の悪口、恨みつらみを言うつもりはありません。


けれど、もうひとつ、相互作用の観点を忘れることはできません。会話をすることによってエネルギーの受け渡しをして互いの周波数を変化させ合っている、そういうことを許している同志であれば、コックリさんじゃないけれど、ふたりで持った鉛筆がなんとなく予定調和的なところに動き、落ち着いていくのでしょう。この観点については、また次回に譲ります。ともかく、なんの矛盾もなくひとかたまりの2時間だと見なしていた出来事が、実はさまざまなレベルの現実を切って貼って編集された不連続の経験であったのではないか、ということと、そう観ると、ますます自分で自分の現実をコントロールしているという自覚が強くなるのでは、というおはなしでした。