前に記事にした『好き嫌いの普遍性』の中で、僕は以下のように述べています。

ーー詐欺の疑いのある人を責め立て訴えるのは、いかにも正義だし、お金を取り返せるような気がする。ところが、たいていはそうならない。裁判費用や余計な心配をしたり無駄な時間を費やすことになる。詐欺まがいのことをしていると見える人でも、かれの世界モデルに照らせば正義なのだし、人間誰しも咎められるのは本意ではない。むしろ、こちらの非を認めて妥協案を提示した方が多くを取り返せるように思う。

書きながら、僕はちょっと違和感を覚えていた部分があります。

ーーこちらの非を認めて妥協案を提示した方が

のところです。なぜ、詐欺の疑いがある者に対して、善良なこちらが非を認めなければならないか、と思われた方もいらっしゃるかと思います。

これは、もっと自分の言葉で表現すれば、『愛の誤解』をした方が、ということになります。相手の悪意や独り善がりの正義をそうと取らず、もっと高尚な意味に取り違えて、それを前提に契約のご和讃を提示するのです。

自分は、2回ほど、詐欺だと噂されていて、やはりその疑いの強い相手からお金をほとんど取り返したことがありますが、2回とも相手を責めるような言い方はしませんでした。

1回目に遭遇して、解決したばかりのころ、『ペリーヌ物語』というアニメを観ていました。子供のために借りてきていたのですが、ちょうどその回は、ペリーヌ一行に意地悪をしようとして盗みに入った商売敵の写真屋を周囲の者がとっちめているとき、ペリーヌの母親がまさに『愛の誤解』をしてその場を取りなし、盗人を感動させるというシーンでした。

いつでも誰にでも通用すると言い張るつもりはありませんが、アインシュタインが解明した通り、『あるエネルギーによってできた物質は、それと似ていないエネルギーが働きかけ解体し、その物質を作っていたエネルギーを放出する』のであるとするなら、ある問題を解決しようとするなら、その問題を作っているのとは異なる種のエネルギーをぶつけなければならない。ということになるだろう。
柔能く剛を制す。相手の放った剛い言葉や態度も、ふわっと受け止め、そのエネルギーをまるで似ていないエネルギーに変えて、さらっと返す。同じことは、この奥義にも通じる所があると思います。
不安のエネルギーには愛のエネルギーを。これは魔法なのではないかと思っています。

したがって、非を認めるというより、愛の誤解で返す、に訂正いたします。