小学校4年の時でした。算数の時間に先生がおっしゃいました。
「正三角形は、三角形の中でも特殊なものです」
こういう物の見方が目から鱗が剥がれるような気がしたものですからよく憶えています。ところで僕はよく、犬のように従順でお人好しの父にこう言われていました。
へそ曲がり。
そしてこの性質はいまでもおとろえることなく、いやそれどころかますます増長しているようです。
先生は、三角形という形は無限にさまざまあるが、3つの辺が同じ比率でしかも3つの内角がどれも60度で同じという三角形は宇宙の中でも非常にめずらしいといった説明をされました。
この先生は古閑先生(仮名)といって、僕が学校生活を送った中で良い印象に残った数少ない高度な教師像をもっておられた一人でした。フレンドリーでかつ厳しい眼で子供を見つめられていました。朝習字という時間がもうけられていて、毎朝、たしか5枚だけ墨で字を書いて先生に提出するのです。これで、転校してきたとき最も習字のヘタだった僕がわずか1年足らずで5段の腕前になったほどでした。毎朝、出席をとるついでに一人一言述べるということも実践されていて、このクラスは生徒が素直に子供をやっていたと振り返ります。
正三角形は特殊な形ーー。
授業中、僕は黙って席に腰掛けていましたが、感動で腰を浮かしそうになるくらい瞠目していたのです。ーー宇宙の中でもめずらしい。
それまでの僕は漠然といろんな三角形があるもんだと思っていたのでしたから、このようなぎゅっと焦点をしぼった見方に衝撃を覚えたのです。
先生はまた平行という概念についてこんなふうに説明されました。
「2本の線の間隔が、宇宙の果てまで行っても変わらないということ」
この宇宙の果てまで行っても、という表現が僕にはいたく感心せられ、空想の翼を拡げたものでした。それはまるで暗黒の闇に包まれた宇宙空間に一幸の光が射すような気がしました。 図形は、宇宙なんだ。
教科書やテスト用紙に描かれているものだけじゃないんだ。
目の前30センチにあるインクで印刷された図形ではなく、想像することのできる、線の太さも厚みもない純粋な概念があるものなんだ。
そんなことを思うともう、いてもたってもいられないくらい、僕の想像力はフル回転するのでした。宇宙という広大なキャンバスに無尽蔵に描かれていく巨大な三角形・・・。
しかし、宇宙のどこに三角形があるんだろう? 僕は赤い砂漠の火星の地表やはたまた高度な文明の発達した宇宙人の住む星などを想いました。
宇宙船、ビルの設計図、幾何学模様、三角定規、鉱石の断面、・・・。
でも、でも。
へそ曲がりな僕はこんなことを考えるのでした。
もし、正三角形が特殊な形だったとしても、全国の小学生のもっている三角定規の数を合わせれば、宇宙にある正三角形の数を越えるんじゃないか? 宇宙に偶然できた正三角形はおそらく至極少ないと思われるから。いやいっそのこと、正三角形ばかりを何千万と紙に印刷すれば、宇宙にある正三角形の数の記録を更新するのではないか。もしそうしたら、正三角形こそありふれたどこにでもある三角形になりやしないか。その他の三角形の方がよほど珍しいじゃないか。
そんなことを思いながら、僕は半透明なビニールケースに入った三角定規を取り出した。そして両手でもっていじりだした。真正面から見ると、正三角形はたしかに3辺の比が等しく、そしてなんど計っても計り間違いをしないかぎり3つの角はどれも60度に思われた。僕は片目をつぶってみた。そして正三角形を腕の伸びるだけ離して見た。そして、今度はぐっと近視眼的に両目が寄るほどに近づけてみた。
これが相似というもんじゃないのか、と僕は思いました。なんだ、相似というのは、いちいち長さを変えずとも、ひとつの三角形を見る距離の問題なのか、と思ったのでした。要するに、大きさの違う相似な三角形というものは、ある三角形を近くから見たり、遠くから見たりしたその姿をプラスチックやら木の板やらで確固たる物にしただけなのだ。
ふーん、なるほど。
これが、宇宙か。
などと、僕は宇宙を手中に収めたような気になり、そしてそれ故に、急に醒めてしまったような気分になったのでした。
それで今度は、手に持った正三角形の定規を上から見たり、下から見たり、斜めに傾けてみたりし始めました。するとどうでしょう。2等辺三角形になったり、辺の長さもバラバラで、角度もさまざまないびつな三角形が現れたではありませんか。
これは、いったいどういうことだ?
ここにすべての三角形があるではないか。
しかし小学校時代の僕のへそ曲がりはここまででした。実は、正三角形が特殊な形なのは、これが全ての原型で、これ以外の三角形は見方の違いにすぎない、とまでへそを曲げて解釈することはできませんでした。つまりあらゆる三角形という三角形は、正三角形のバリエーションにすぎない、と。もっと言えば、宇宙には唯一の三角形しか存在していなくて、他はすべて見方のちがいによるものだ、と。だから、三角形の内角の和は、180度で一定なのだ、とまでへそを曲げたい気分です。
5年、6年とすすむ内に僕は宇宙物理学にも興味をもちはじめ、図鑑を眺めたりする内に、また古閑先生の説明が頭をよぎるのでした。
平行とは、宇宙の果てまで行っても、交わらないーー。
実際に宇宙の果てまで具体的な物質で作った平行な線を伸ばすことはできないように思えました。僕は嘘をついてどこまでも伸びていくピノキオの鼻や天上界の橋にくくりつけられたげんごろうさんの鼻のことを思い浮かべたりしながら考えました。光でもって発射しても、それは星やブラックホールの重力で曲がることもあるでしょうから、やはりないということになるのではないか。
そうすると、その宇宙の果てまで行っても線の間の距離が等しい2直線というのは、どこにあるのだろう? 
その疑問を残したまま、歳月はすぎ、今の僕は小学生時代の僕にこんな示唆を与えたいと思います。
この定義はいかにも腑に落ちるものではありますが、具体的な証明などできないのです。定義として想像の世界には存在していますが、具体的にはない。ノートにそれらしく描くことはできます。けれど、宇宙という時空にそれを物質でもって表現することは困難至極に思われます。設計図には平行として描かれた、ビルの底辺と上底辺は、やはりなんらかのズレもねじれもあるのでしょう。縦のラインもゆがみも丸みもたわみもあるでしょう。けれど、このことが結論するのは、理想は実現しないといった短絡的なものではありません。だから、どうだっていいのだと投げやりになるのでもない、と僕は思うのです。
それでも、ビルは立っている。
摩天楼に伸びようとして。
つまり、確として想像しえるものは、物理世界にも実現できないことはない。たとえその片鱗であっても。
こんなへそ曲がりな、ほとんど信念みたいな物の見方をすれば科学者たちは、とたんに不機嫌になり、眉をしかめ、論理の飛躍だと口をそろえて訴えることでしょう。けれども、平行の概念は3次元的に引き延ばされたものではないかと思うのです。次元があがればあがるほど、その距離はなくなり、ゆがみも歪曲も減り、ただ平行という概念だけになってしまうことでしょう。それでは、僕らは平行を体験的に知ることができない。
体験して知るのが、この3次元宇宙のあるわけかもしれません。概念と体験。これは決して対立しているものではなく、同じものだと僕は思うのです。どちらか、ではなくどちらも。それが科学と実生活(あるいは宗教)を統合した霊性だと思うのであります。
おい、ちょっと待て。平行を角度をかえて見ても決して交叉しないぞ、接しはするが交わりはしない。だったら、お前さんが三角形でやったような物の見方ですべてのバリエーションができるなんぞといった考え方は無効なんじゃないか? とつこんんだあなた、あなたのへそはまっすぐです。たぶん、その問題は、平行と直角のバリエーションということになるのでしょう。
そうしてまた、三角形の問題にいま答えるなら、僕はこんなふうにかつての自分に言うことでしょう。
三角形が僕の見方の違いでバリエーションを有しているとするなら、ではでは、人間とは? 創造神を原型とする、おのおのがこれが創造神だとするおのおのの見方をしている個という存在(霊)があるだけだ、と僕はこれが絶対の真理のようには主張しないけれど、人間というのは、あらかたそんなものではないかと思ったりするのです。
いま、天国にいらっしゃる古閑先生、いかがでしょうか?

どうやら僕のへそ曲がりな習癖は治りそうもありません。