ひょんなことから谷崎潤一郎の『盧刈』を読むことになった。数年前に何十キロ分か売ったのですが、それでもまだところ狭しと廊下にまで本棚がはみ出していて、私の仕事部屋から出て右に曲がるところに置いている本棚の横を通るとき、このごろネジがゆるんできたのかそれがゆさゆさ揺れるんですね、一番上に積み上げていた本がぽろんと落ちて玄関に転がりました。こんなふうに書くとなにやらわがやはとても広いような感じがしないでもないのですが、すべて団地サイズ、猫の額よりも狭い、正真正銘の公共団地です。拾い上げてみると、筑摩書房刊 日本短編文学全集17と金の刻印が打たれていました。昭和42年の発行ですから、私とおないどしなわけです。そうか、と思いながらホコリをはらい、また元あったところに戻しました。今度は落ちないようにと他の本を整え、うまくひっかかるようにしてその上に積み重ねました。数日してまた私が本棚の横を通り過ぎようとすると、またぽろんと勢いよく落ちる本があるではありませんか。それはまるで、アゲハチョウが羽を乱さんばかりに飛び落ちるかのように思えました。

見るとやはり日本短編文学全集17でした。またしても、と思いながら開くとそこには、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫の短編が3、4編ずつ載せられています。実はこの本、数年前に購入し、各作家1、2編ずつ読んで本棚にしまっていたものでした。これは、こんなに派手な落ち方をするところを見ると、私にどれか読めと言っているのだな、と思われ、『蘆刈』を読むことにしたのでした。というのも、同時に収録されていた『幇間』と『小さな王国』は既読でしたし、確かに谷崎潤一郎がここのところ数回夢に登場してきていて、私は彼の家にお邪魔などしてなにやら話をうかがい、そして小エビ、生きて小鉢に入った数匹の小エビをもらい、天ぷらにしようと彼の家の台所に立ったりしていたのでした。『蘆刈』は、あしかりと読みます、幻想的な終わり方をしていましたので、そういうものだという評もありますが、私にはとても身につまされる話でありました。そういうわけで、あえてあらすじは省略させて頂きます。けれども、あらためて恐れ入ったのは、谷崎の観察眼と美に対する精妙な筆致でありましょう。たとえば、こういった記述があります。

『・・・ちりめんというものはしなしなしているばかりでなくこういうふうにしぼが高くもりあげっているところがねうちなのだ、このざんぐりしたしぼの上からおんなのからだに触れるときに肌のやわらかさがかえってかんじられるのだ、』

女性の柔らかなきめ細かい肌に、鎖のようにどっしりと目方のかかるごつごつした風合いの生地が相対(あいたい)するのはコントラストがついて女性の肌の風合いを強調するという見方をしているのです。ある種マゾヒズム的な官能を呼び起こしそうな表現だとかんじられました。そしてさらにこう続きます。

『縮緬の方も肌のやわらかい人に着てもらうほどしぼが粒だってきれいに見えるしさわり加減がここちよくなる・・・』

ちりめんの側からの見方を省略しないところがこの作者の観る眼のこまかさを露にしているように思います。物の方、物にも気持ちがある。それその物の喜びがあるというのをさらっと織り込んでいるわけです。本当に軽く、うぶげを筆でなでたような微細なことにこの作家の意識は同調しているのだと思います。着る者、そして着られる物、互いが互いの美を引き立て合うとは、こういうことだ、相反するような風合いを一体化したときだという美の極致をさりげなく描き切っているのです。

『・・・なべて自然の風物というものは見る人のこころごころであるからこんな所は一顧のねうちもないように感ずる者もあるであろう。けれどもわたしは雄大でも奇抜でもないこういう凡山凡水に対する方がかえって甘い空想に誘われていつまでもそこに立ちつくしていたいような気持ちにさせられる。こういうけしきは眼をおどろかしたり魂を奪ったりしない代わりに人なつッこいほほええみをうかべて旅人を迎え入れようとする。ちょっと見ただけではなんでもないが長く立ち止まっているとあたたかい慈母のふところに抱かれたようなやさしい情愛にほだされる。殊にうらさびしいゆうぐれは遠くから手まねきしているようなあの川上の薄靄の中へ吸いこまれてゆきたくなる・・・』

景色というものにたいする理解は、超えて超えて、雅懐に至った時にほんとうの優美さを愛でることができるのではないかと彼は述べているように思います。
こういった風景にたいする鑑賞眼や女性の美にたいする着目ばかりではなく、人間の機微というものもこの作家は実に見事にそして厭味なくとらえている。たとえばこういった記述があります。正妻のおしずのはからいで、男はその姉のお遊さんと懇意にしているですが、金持ちの作り酒屋の主人がお遊さんを後妻に迎えようとしたとき、心中しようかとけっしんしたのだけれど、その段におしずにこう言わせます。

『きっと一緒につれて行ってくださりませ、いまになって除けものにされたらなんぼくやしいかわかりませぬといってあとにも先にもおしずがやきもちがましいことを申しましたのはこのときだけだそうにござります』

焼き餅の使い方がうまいと、ーーいままで自分の夫を姉と引き逢わせる算段やこころくばりをしていたときにはみじんも焼き餅を焼かずにいたのが、ここぞというとき、つまり二人を死なせたくないという思いを強烈に伝えるためには焼いた、おしずという女性の奥深い姉妹愛をえぐりだすように描いているわけです。そして愛し合う男女を、自分みずから男の正妻になりながら後押しする姿の理解しがたい愛をまざまざと見せつけられたのです。読み続けている間、このおしずという女性はどこか愚鈍で人が良すぎるように思っていたのですが、そして主人公は、この話を語る、男の息子、あるいは語られている男とお遊さんのように思っていたのですが、どうやら本当の中心人物はこのおしずという目立たない、地味なそして人の良すぎるおろかものだったのではないかと思えてきました。

ところが読み進むうちに、その解釈が変化してきたのです。『何かこうぼうっと煙っているようなものがある、かおの造作が、眼でも、鼻でも、口でも、うすものを一枚かぶったようにぼやけていて、どぎつい、はっきりした線がない、じいっとみているとこっちの眼のまえがもやもやと翳って来るようでその人の身のまわりにだけ霞がたなびいているようにおもえる。むかしのものの本に「蘭たけた」という言葉があるのはつまりこういう顔のことだ』と描かれた、派手な気だて、取り巻きのたくさんいる姉のお遊さんに対比するように平凡な顔立ちと地味で目立たない妹のおしず。『何より不満なのはお言うさんのかおにあるあの「蘭たけた感じ」がない、お遊さんよりずっと位が劣って見える、お姫さまとと腰元ほどのちがいがある』と評されたおしず。その姿はまさに谷崎が本当の優美と描いて見せた『峨峨たる峭壁があったり岩を噛む奔湍があったりするいわゆる奇勝とか絶景とかの称にあたいする山水ではない。なだらかな丘と、おだやかな流れと、それらのものを一層やんわりぼやけさせている夕もやと、つまり、いかにも大和絵にありそうな温雅で平和な眺望』なのではないか。と私には思えてきたのです。

愛する者同志を愛し合わせる存在。話の中でも、男とお遊さんを裂こうとする世間の噂や醜聞は挟み込まれています。そして、金に物を言わせて娶り、飽きたら置物のように放置する酒屋の旦那など、ふたりが一緒にいられないようにする動きがある中、このおしずのような女性があることが際立って輝いているのではないかと私は思いました。そして、このおしずという女性こそ、最も愛を知る者かもしれません。それは決して犠牲的なものでも献身的なものでもなく、しごく純粋な行為であったと思われました。それは谷崎潤一郎が求めてやまなかった、凡山凡水を地でいく人物像ではなかったか。と私には思えたのでした。